7
——翌日。
ジェーンは、昨日につづいて、崖の縁に立っていた。昨日作業を終えたところをスタート地点にして、肉眼と双眼鏡で、足の状態を確かめていく。
いくらか歩いたところで、足音が近づいてきた。
ジョンだ。
ジェーンはたずねた。
「調子はどう?」
「ばっちり!」ジョンが力こぶをつくる。
「ちゃんとごはんは食べた?」
「もちろん。昨日はごめんね。もうあんなことないから」
ジョンの目は、うつろで、揺れていた。頬の腫れは引いているように見えるが、目の下のくまは、昨日より濃くなっていた。
ジェーンは、ジョンの前にしゃがんで、
「よし! じゃあ今日は、ひとつお願いをしましょう」
ジョンの目が、疲れを忘れたように、きらっと輝いた。
ジェーンは、双眼鏡を渡して、
「あの足を見て、見えた特徴を、私に教えて。それを記録するから」
「え、でも——」
ジョンは双眼鏡を抱きしめて、おそるおそる、巨大な左足を見た。
「あれ、神様の足だよ? こんなもので見たら、ばちが当たるよ」
「だったらとっくに、私にバチが当たってる」
ジェーンは、ひとつ、たずねた。
「あなたは、神様を信じてる?」
「信じるもなにも、あそこにいるけど」
「ほんとうに?」
ジェーンは、微笑んだまま、真剣な目で、ジョンを見つめた。
「あそこにいるのは、ほんとうに、神様なのかな」
ジョンは、うつむいた。
おなかが空いているのに、そんなむずかしいこと、言わないでほしい。
そんなふうに言われたら、あれが神様じゃないように見えてきて、罰当たりになったような気持ちになってしまう。これまでずっと、あれは神様だと教えられてきた。それ以外のなんだと言うのだろう。
「行きましょう」
と、ジェーンが立ち上がる。
「これが終わったら、昨日より高めの報酬をあげよう」
ジョンは、雑念を払うように首を振って、ジェーンを追った。
ジェーンは肉眼で、ジョンは双眼鏡を使って、巨大な左足を観察した。
ジョンは、言われたとおり、見える範囲のことを伝えた。きれいな肌をしてるとか、内側のくるぶしの上にほくろがあるとか。昨日の街案内は、おなかが空いていた上に、たくさん歩かなければいけなかったから、しんどかった。けれど、今日は、双眼鏡をのぞいて、見えるものを伝えているだけだ。こんなことで、ほんとうにお金がもらえるのか、不思議でならなかった。
ジェーンは、いつもよりゆっくり歩いた。ジョンが遅れていたら、立ち止まって、近くに来るのを待った。手帳になにかを書きとめるあいだも、ちらちらと、ジョンのようすを見守っていた。
少し歩いては、立ち止まる。
少し歩いては、立ち止まる。
親鳥が雛鳥に歩き方を教えるように、雛鳥が親鳥に従うように、ふたりは並んで、断崖の縁を歩いた。
——昼過ぎ。
崖の縁を四分の一ほど進んだところで、「今日はここまで」と、ジェーンが仕事を切り上げた。
「ついておいで」
と言われるがまま、ジョンはジェーンについていった。
巨大な足が遠ざかって、工場が立ち並ぶ通りも遠ざかる。
ふたりは、街の北側への入り口に、立っていた。
西側や東側の地域とちがって、北側には、老年の医者が言うところの、上流階級の人たちが住んでいる。
北側への入り口は、大きな壁にはばまれていて、壁をくりぬいたような連絡路を通らなければならない。入り口には、槍を持った憲兵が立っていた。ほかの地域から、不審な輩が入ってこないよう、見張っているのだ。
ジョンは、ジェーンの袖を引いた。
「ここ、入れないよ?」
ジョンは以前、北側に入ろうとしたことがある。ほかの地域ではお金が稼げないから、北側にいる家にでも忍びこんで、金目の物を盗もうと考えたからだ。
しかし、北側への壁は高く、憲兵が目を光らせていて、どうやっても壁の向こうに行けなかった。
「だいじょうぶ」
と、ジェーンは言って、憲兵に近づいた。
「お疲れ様」
「ああ、どうも」
憲兵は、にこやかに、ジェーンにお辞儀をする。
そのまま、ジェーンは、連絡路を通ってしまった。
ジョンはあんぐりと口をあけて、ジェーンの袖をまた引いた。
「な、なんで? なんで、ここ通れるの? あの人たち、いつも、わたしがここに来ようとしたら、邪魔するのに」
「私が旅人だからかな」
ジェーンは言った。
「あの人たちが通したくないのは、他の地域の人だけ。私はこの街の人じゃないし、ちゃんと身分を伝えたら、あっさり通してくれた。家族にはえらい顔するけど、お客様にはやさしいっていうのと、同じ」
ジョンにはよくわからなくて、ただ、ジェーンについていくしかなかった。
街の北側には、アパートの類はほとんどなかった。多くが一軒家で、家と家のあいだも十分に開いている。石垣や垣根に囲まれた家々は、どれも大きく、広い芝生の庭を持っていた。
通りを行く人たちは、きれいな身なりをしていた。
聞こえてくる声は、おだやかで、楽し気で——明日にも飢えて死ぬんじゃないかという不安は、少しも感じられなかった。
ジョンは、まるで、別の世界に来た気分だった。
しかし、見上げる空は、工場からただよってくる煙で、灰色にそまっている。
日差しはほとんどなく、街全体が、薄い影の中にいるようだ。
振り向くと、連絡路の向こうに、灰色の柱のような、巨大な左足が見えた。
そこまでしてやっと、ジョンは、ここが同じ街だと感じられた。
しばらく歩くと、住宅地とは別の通りに出た。
あたりにはおいしいにおいがただよっている——飲食街らしい。
ジェーンは、ジョンをつれて、木造のカフェに入った。表の看板には、チョークの白い文字で、肉やパスタ料理が楽しめる、と書いてある。店内だけでなく、突き出した庇の下の、屋外テラスでも食事できるようだった。
ジェーンは、ジョンをテラス席に座らせて、店内で注文を取った。
そのあいだ、ジョンは落ち着きなく、あたりを見回していた。
通行人は、ジョンを見つけては、不自然そうな目をしている。労働者の子どもが、どうしてこんなところに、といった具合だ。好意的な目はひとつもない。
そのうちだれかに襲われるんじゃないかと思っていたところで、ジェーンがもどってきた。ジェーンが席につくと、通行人は、さっきまでの険のある目をそらして、まるでさいしょからジョンなんて見てなかったように、どこかに歩いていった。
なにが起こっているのか混乱しているあいだに、
「お待たせしました」
ボーイが、トレーを持ってやってきた。
ジョンの前に、大きな皿がおかれる。
皿の上には、鶏の丸焼き。
スパイスの香りと、焼いた肉特有の香ばしい香りが、ジョンの背筋をふるわせた。
ジェーンの前にも、同じものがおかれた。ジェーンは迷わず、ナイフとフォークを持って、我流の切り方で、こんがりとした鶏肉を、大ぶりの塊に切り分けた。肉の塊をフォークで刺し、口を大きくあけて、かぶりつく。
「えんりょしないで」
ジェーンは、口の中を肉でいっぱいにして、
「早く食べないと、冷めちゃうから」
「いや、でも——」
「んん、もしかして」
ジェーンは肉を飲みこんで、
「お肉食べられない? 体に合わないとか」
「え、いや、そんなこと」
「ふーん。じゃあ——」
ジェーンは、自分の肉を切って、フォークに刺し、ジョンの口元に持っていった。
「ほれほれ」
と、犬の前で骨をちらつかせるみたいに、肉をふる。
ジョンはめまいがした。目の前に出された肉の塊と、香ばしい香りと、空腹と、ジェーンと……なにを見ればわからなくて、ただ口をぱくぱくさせるしかない。
「隙あり」
と、ジェーンは、肉の塊を、ジョンの口に押しこんだ。
ジョンは、リスのように頬をふくらませて、押しこまれた肉を、かんでいく。
かめばかむほど、口の中いっぱいに、肉汁が広がっていく。喉がこくこくと鳴るたびに、唾液で甘くなった肉が、胃の中に落ちていく。体の中心から、手先足先にかけて、じんわりと熱が広がっていく。気持ち良すぎて、背筋がふるえた。
なにを言われるでもなく、ジョンは、目の前の肉にかぶりついた。
切り方がわからないから、肉を丸ごと、ナイフとフォークではさんだ。
犬が骨をしゃぶるみたいに、鶏肉に顔をうずめて、口も鼻も、油まみれにした。
次から次に、料理が運ばれてきた。
お手製のパスタ。
トマトとレタスのサラダ。
かりかりに揚げたポテト。
コーンスープ。
どれも味わったことがないおいしさで、ジョンは口が止まらなかった。
ジョンは泣いていた。
涙と鼻水で、料理をぐずぐずにしながら、目の前の料理を、ぜんぶ、口いっぱいに放りこんだ。
——すっかり料理を平らげて。
ボーイが食後のお茶を出してくれた。
ジェーンは、ナプキンで、ジョンの目や口を拭ってやる。
ジョンは、気持ちが落ち着いてから、上目になって、ジェーンを見つめた。
「どうして、ここまでしてくれるの?」
ジェーンは腕を組んで、灰色に煙った空を仰いだ。
「……旅は道連れ、世は情け」
「え?」
「好きなんだ、この言葉」
ジェーンは言った。
「ぐうぜん立ち寄った街で、思わぬ出会いをして、仲良くなる。わたしが困ってるときに、いろんな人が助けてくれた。わたしだって、困ってる人を助けることもあった。つまりこれは、そういうこと」
ジェーンは、ジョンに微笑んだ。
それを見ていると……なぜか、ジョンの胸が痛んだ。
理由を探っているあいだに、ジェーンが言った。
「言っとくけど、だれにでもこんなことするわけじゃないからね。わたしが手ほどきするのは、あなただけ。ほかのお友達に、良い金づるがいるとか、紹介しないでよ」
「しない。ぜったいしない、そんなこと」
あなただけ。
胸は変わらず痛むけど、その言葉は、なんだかうれしかった。
どうしてうれしいのか、その理由は、やっぱりわからなかった。
ジェーンは席を立って、ウエストポーチから財布を取り出すと、店の中に入っていった。ボーイと話しながら、会計をすすめている。気が合うのか、それともジェーンの人柄か、ふたりは話しが盛り上がっている。
ジョンは、うつむいたまま、考えていた。
(旅って、なんだろう?)
旅っていうのは、こんなふうに、だれかに施しをすることなのかな。
わたしは、お金目的で、ジェーンに近づいた。
だって、お金を稼がないと、おとうさんに怒られてしまう。
おかあさんだって、毎日働いて、家に帰ったらおとうさんに怒られて、泣きながら頑張っている。
だから、わたしはお金を稼がなきゃいけない。
ジェーンは、気づいているだろうか……わたしが、お金目的で、ジェーンに近づいたことに。
目の前にジェーンがいなくても、心の中に、ジェーンの微笑みが残っていた。
あの微笑みは、わたしに向けられた。
ジェーンは気づいていない?
ううん、そんなわけない。
わたしより大人なあの人が、わたしの考えに、気づいていないわけがない。
……もしかして、ジェーンは、わたしのこと、悪く思ったかな。
お金がほしくて、必死にジェーンに取り入ろうとしていたわたしを、どう思ったかな。
ジェーンがもどってくる。
「さ、帰りましょう」
それを合図に、ジョンは立ちあがった。
ジェーンの後ろを歩く。
来たときと同じで、連絡路に立っている憲兵は、にこやかに挨拶をして、ジェーンとジョンを通してくれた。
——夕暮れ。
煙の立ちこめる街中は、岩山の向こうに夕日が沈むと、とたんに真っ暗になる。
火付け屋のおじさんが、街灯に火をともして回っている。
暗闇の中、ぽつぽつと丸い明かりが浮かんでいるような通りを、ふたりは並んで歩いた。
断崖まで来たところで、ふたりは別れた。
ジェーンの宿は、街の西側にあって、ジョンの家は、東側の煉瓦通りにある。
「今日もありがとう」
ジェーンはそう言って、ジョンの手のひらに、銀貨二枚を置いた。
ジョンはふるえた。カフェでめちゃくちゃに泣いたのに、また泣きそうだった。ジョンは必死に首を振って、銀貨をジェーンに押し返した。
「い、いらない! わたし、今日、なにもしてない!」
「仕事を手伝ってくれたじゃない。いっしょに食事もしてくれたし」
「それは、ジェーンが誘ってくれたからで……」
ジェーンは、微笑みと、真剣なまなざしを、浮かべている。
「必要なんでしょ?」
ジョンは奥歯をかんだ。
泣きそうになるのを、必死でこらえているあいだに、ジェーンが言う。
「お金は、必要な人のところにあればいい。私は、これからも一人で旅ができるくらいのたくわえがあるし、金貨の一枚二枚あげたところで、財布はまったく痛くない。でも、あなたはちがう。私といっしょにいるのは、ちょっとしたサービスなんでしょ? 仕事でいっしょにいてくれるんだから、対価が必要じゃない?」
ジョンは、耐えられなかった。
こらえていた涙が、目の端からあふれて、止まらない。
ジョンにはわかっていた——これは、うれし涙なんかじゃない——涙があふれたその先で、胸の周りが、じゅくじゅくと痛んでいた。
ジョンの手のひらには、二枚の銀貨がある。
たった二枚なのに、まるで鉛のかたまりを抱えているかのように、重く感じた。
ジョンは、銀貨の重さに負けたように、顔を上げられなかった。
「あ、そうだ」
ジェーンはひとつ手を打って、
「明日の朝、宿の前に来てくれない?」
「な、なんで?」
「ちょっと出かけるところがあってね。場所の目星はついてるんだけど、どうせなら、だれかと見るのもいいかな、と思って。どうかな?」
ジョンは、すぐに答えられなかった。
涙の理由もわかっている。
それなのに、このまま、ジェーンにたかるような真似を、したくなかった。
ジェーンは言った。
「じゃあ、今日の報酬は、さっきのお店の食事ってことにしましょう。それは、サービスとかじゃなくて、別の意味で渡します」
「どういうこと?」
「約束」
ジョンが、顔を上げる。
ジェーンは、ジョンの前にしゃがんで、そっと、ジョンの両手をつつんだ。
「明日、いっしょに遊びましょうっていう、約束——それを忘れないでねっていう証として、この銀貨を渡します。それならどう?」
ジョンの目から、涙が消えた。
ジェーンの手は、ジョンの手より大きくて、分厚くて、温かかった。
ジェーンの目は、切れ長で、見方によっては怖くもあるけれど、黒い瞳はやさしい光を帯びていた。
ジェーンの顔に、曇りはない。
明るい晴れ間にいるような、
気安い友達と話しているときのような、
そんな、おだやかな顔をしていた。
「——わかった」
ジョンはしっかりうなずいた。
「また明日」と、ジェーンが西の通りに消えていく。
ジョンはしばらく、断崖の前に立って、ジェーンが見えなくなってから、煉瓦通りを歩いていった。
——その日の夜。
ジョンの家で、いろんな物が壊された。
不機嫌になった父親は、ジョンの右頬をなぐった。
丸一日出かけていたくせに、無一文で帰ってきたからだ。
父親は腹いせとばかりに母親をなぐって、机をなぐり、窓の縁をゆがめ、ベッドのシーツを破いた。ひととおり暴れて、それでも冷めない怒りを晴らすべく、街の酒場に出ていった。
嵐の後のように、家の中が静まり返る。
ほどなく、ジョンが笑いだした。
とつぜん笑いだしたジョンを見て、母親はひどく心配した。この子までおかしくなってしまった。この世の理不尽を嘆くように、母親は激しくすすり泣いた。
しかし、ちがう。
ジョンは、うれしくて、笑ったのだ。
これまで負けっぱなしだったのに、今日、はじめて、父親に勝ったのだ。
ジョンはおなかの下をまさぐって、体の中に隠していた銀貨を、取り出す。
ほの明るいランプに照らされて、二枚の銀貨が、きらりと光った。




