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——夕方。
病院のベッドで、ジョンは目を覚ました。
窓の外は薄暗い。火付け屋のおじさんが、街中の街灯、ひとつひとつに、火をつけて回っている。そろそろ帰らないと……
病院のおじいちゃん先生がやってきた。
ジョンは、回りはじめた頭で、あわてた。
「あの、お金……」
「おまえをつれてきた女が、払ってくれたよ」
枕元に、金の入った小包があった。
ジェーンが「案内代」として置いていったものだ。
医者が言った。
「それで、良いものを買って、食べなさい。ごはんを食べれば、良くなるから」
「でも、これ——」
ジョンが言いよどむのを、老年の医者は、悲し気に見つめた。
煉瓦通りを、東に向かう。
工場から離れるにつれて、うらぶれた建物が増えていく。
ぎちぎちに建てられたアパートは、ほとんどの窓に、明かりがなかった。
明かりのある部屋からは、怒鳴り声や、下品な笑い声が響いている。
明かりのない部屋からは、すすり泣きや、弱った寝息が聞こえてくる。
ジョンの家は、ぎちぎちに建てられた、五階建てのアパートの、二階にあった。
一階に住んでいた人はしばらく前に死んだ。
三階から上には、だれかが住んでいるけれど、だれが住んでいるのかわからないくらい、音がしなかった。
静寂が暮らすアパートにあって、ジョンの家は騒がしかった。
父親が怒鳴っている。ときどきガラスの割れる音がする。いら立った父親が、今日もまた、力ない母親に当たっているのだ。
ジョンは、暗い廊下の、扉の前に立った。
母親の短い悲鳴。
騒がしい音が鳴りやんでから、震える手で、扉を開けた。
キッチンと寝室がいっしょになったような、ひどく狭い部屋だった。母親はベッドに倒れていて、黄ばんだ服とシーツを、血と涙で濡らしていた。ベッドの上には、三歳になったばかりの弟がいた。弟は、いましがたこの部屋で起こっていたことを知らないというように、か細い寝息を立てていた。
「ただいま」
「おそかったな」
父親はテーブルにいた。無精ひげでいっぱいの顔で、お酒をあおっている。アルコールでぱんぱんに膨れたお腹が、綿のシャツからはみでていた。度数の高いジンを飲みながら、ごほ、ごほ、と痰のからまったような咳をしている。採石場の労働者、特有の咳だ。肺病にかかる、一歩手前だったが、生命と精神にあふれた体は、それ以上の進行を止めていた。
父親は、赤ら顔で、ジョンを見た。
「きょうはどのくらい稼いだ」
「これ」
と、ジョンは、ジェーンが置いていった小包を、父親に渡した。
父親はそれをひったくると、テーブルの上に、中身をぶちまけた。荒っぽい言動とは裏腹に、繊細な手つきで、硬貨を数えていく。
「ハハ、やるじゃねえか!」
父親はうれしそうに立ち上がり、ジョンの肩をぐっとつかんだ。
「おまえはほんとうにいい子だなあ! 工場で働く父さんのために、こんなに稼いでくれてんだから! ほかのやつらにも見習わせてえよ!」
父親は口笛を吹きながら、硬貨を投げて遊び、部屋を出ていった。今日も酒場に入り浸るつもりだ。家に残してくれるお金は、ひとつもない。
ジョンは母親の背中に回って、骨ばった背中を抱きしめた。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
母親は泣くばかりだった。街中の、裁縫工場や洗濯工場で働いているが、実になるような稼ぎはなかった。働いたぶんは、北の貴族が持っていってしまう。弟が飢えないようにするだけで、精いっぱいだった。
ふるえる母親を抱きしめて、今年十二歳になるジョンは、いろんなことを考えた。
おとうさんに頼っちゃいけない。
わたしが稼がないといけない。
この家で、いま、一番しっかりしてるのは、わたししかいないから……
ふと、足元を見ていたら、自分の履いている靴が、目に映った。八歳の誕生日に、母親がこっそり買ってくれたものだ。つま先はすっかり破れている。はみでた爪先が地面とこすれるし、寒い日には指先がかじかんでしかたない。
ほんとうは、新しい靴を買いたかった。
でも、ほしい靴は高くて、いまの家系じゃあ、とても手が届かない。
それにこの靴は、おかあさんがくれたプレゼントだ。ずっと大事にしていない。だから今日まで、つま先が破れても、使いつづけた。
しかし、ジョンの靴は、なにも言わなかった。
ジェーンは、靴と話していた。靴に認められたら。靴の声が聞こえるようになる、みたいなことを言っていた。ジョンは、この靴をずっと履いているのに、靴の声なんて、聞いたことがなかった。
ジェーンは嘘をついたのだろう。
身なりの悪いわたしを見て、子どもだからって、からかったんだ。
物思いにふけっているあいだに、父親が帰ってきた。出ていったときより酔っぱらっていた。父親は、陽気な足取りでベッドに近づいて、母親をどかせて、いびきをかきはじめた。
母親は、痛みと疲れで、弟におおいかぶさるようにして、眠っていた。
ジョンは考えた。
ジェーンはいいお客さんだ。
あの人についていけば、もっとお金が稼げる。
昔、たまたまやってきた旅人に、お金をたかったら、女の子だってなめられた。結局、その人からお金はもらえなかった。だから、余所から来た人にたかるときは、男の子のふりをして、嘘の名前を使うようにしていた。
あの人は、わたしを、男の子だと思っている。
そうだよね、帽子の中に髪の毛を隠して、男の子の名前を使えば、だれだって、わたしを男の子だって、思うよね。
明日も、あの人についていこう。
今度は倒れないように、水でおなかをふくらませておこう。
ジョンは、部屋のクローゼットを改造した、自分だけの部屋に入った。
狭いベッドに、体を折り曲げて、目を閉じる。
おなかはぐうぐう鳴っていたけれど、いつのまにか意識がなくなって——もうろうと目を覚ますと、朝になっていた。




