5
日が上るより先に、ジェーンは目を覚ました。
軽くストレッチをして、宿の水場で顔を洗ってから、外に出る。
朝の街は霧にかすんでいたが、工場からの排煙はなかった。
ジェーンは、ブーツの紐を固く結んで、霧の中を駆けだした。
頭の中にある地図と、昨日歩いた道を照らし合わせて、衛兵の詰め所あたりまで走る。宿まで引き返すと、また詰め所に向けて走る。旅をしているあいだ、体がなまらないようにするための、日課だった。
二十回ほど往復する頃には、霧が晴れていた。
「おお」
ジェーンはゆっくり立ち止まって、朝日に照らされる街を見た。
工場の煙のない街中には、まさに異国といった景色が広がっていた。
様々な文化があわさった、色とりどりの建物。
雑多な街並みの先には、煉瓦通りと、ショッピング街がある。地図によると、あの断崖を中心に、街の地域は、東西南北で分かれているらしい。それぞれの区画で、まったく別の色合いと文化が、広がっているのだとか。
ジェーンは口元をゆるめて、「悪くない」とつぶやいた。
「せっかくなら、この景色、山頂から見たいわね。足の調査が終わったら、またあの山を上りましょうか」
ジェーンは宿にもどって、シャワーと食事をすませた。
分厚い手帳。
鉛筆一本。
双眼鏡と、財布。
ジェーンは必要なものをウエストポーチにまとめて、街の中心に向かった。
朝の霧は晴れている。が、少しずつ、工場から排煙が、街に広がっていた。すっきり見えていた青空は、たちこめる排煙のせいで、灰色にかすんでいる。そのうち、雨雲のように広がった煙が、街を夕方のように暗くするだろう。
働く者の音が聞こえてくる。
工場からの機械音。
金属を叩く音。
人間たちの、騒がしい、怒りと、疲労と、悲しみのにじんだ声。
途中、とある工場の前を通りかかった。洗濯工場らしい。工場の中いっぱいに、物干し糸が張られていて、作業服やスーツが、たくさん、ハンガーにかけられていた。作業しているのは、頬のこけた女性や、やせた子どもばかりだった。彼女たちのそばに、キレイなスーツを着た男が立っている。スーツ姿の男は、作業員が水桶の中で手を止めていると、厳しい目つきで、鞭をふるっていた。
断崖の前にやってきた。
切り立った崖のそばには、昨日と同じように、白装束の巡礼者がひざまずいている。
彼らの邪魔をしないよう、ジェーンは、少し離れたところに立った。
ポーチから手帳と鉛筆を取り出して、断崖の先にある、巨大な左足を見つめる。
手帳に目を落として、さらさらとなにかを書き留める。
それを何度か繰り返すと、ジェーンは、双眼鏡を取り出した。レンズをのぞいて、拡大された足を観察する。つま先、くるぶし、ひざのまわり。空には排煙が立ちこめていて、ひざより上が、煙の向こうに隠れている。
ひとまず見える範囲のものをたしかめて、ジェーンはまた、手帳になにかを書き留めた。
場所を変えるべく、双眼鏡をしまう。
手帳を片手に歩き出すと、視線を感じた。
「おはようございます!」
ジョンがいた。ジェーンに会えたことを喜ぶみたいに、にっこり笑っている。が、右頬が赤く腫れていて、よく見ると、目の下に暗いくまができている。昨日と同じ身なりをしているが、無理をして笑っているような違和感がつきまとっていた。
ジェーンはたずねた。
「おはよう。どうしたの、それ?」
ジョンは恥ずかしそうに左頬をかいて、
「弟と喧嘩しちゃって。大丈夫だよ、これくらい」
ジョンは、怪我のことなんかどうでもよくなったように、ジェーンの持ち物を見つめた。
「何やってるの?」
「足の観察」
ジョンは不思議そうにまばたいて、
「そういえば、おねえさんって、なにをしにこの街に来たの?」
「あの足を見に来た」
「巡礼ってこと?」
「いんや。私、神様を信じてないから」
ジョンは首をかしげて、
「あそこに神様がいるのに、神様を信じてない? どういうこと?」
ジェーンは、面白いことを聞かれたと、くつくつと喉の奥で笑った。
ジェーンが崖の周りを歩き出す。
ジョンもそれにつづいた。なにか答えがくると思ったのに、ジェーンはぜんぜん話さない。ジョンは答えを急かさなかった。その代わりとでも言うように、ジョンは、親鳥についていく雛のような足取りで、ジェーンの後ろを歩いた。
ジョンの両目はぎらついていた。
今日もまた、ジョンは仕事を求めていた。
足の見える角度が変わると、ジェーンは立ち止まった。
手帳を開く。
肉眼と双眼鏡の両方で、巨大な足を観察する。さっきまでと同じように、いくらか観察した後、手帳になにかを書き留める。
ジェーンの目は真剣だった。
ジョンと話していたときは微笑んでいた口元も、いまは真っすぐ結ばれている。
ジョンは話しかけるタイミングを見つけられなかった。それでも、ジェーンのそばを離れる気はなかった。このまま待っていれば、仕事をもらえるかもしれない。ジョンは、ジェーンの視界に入らないようにして、話す機会をうかがった。
ジェーンはまた手帳を閉じて、歩き出した。
頭の中から、ジョンのことが、すっぽりと抜けていた。
黙々と、目の前のものを観察することに、意識のすべてを持っていかれている。
そのあいだ、ジョンは、ジェーンのそばにいた。立ち止まって、歩いて、また立ち止まって、歩く……時間が経つごとに、ジョンの足取りが、不自然になっていった。生まれて間もないひな鳥が、歩き疲れてよろけるように、両ひざが小刻みにふるえている。
それでも、ジョンは、ジェーンの後についていった。
何度もおなかが鳴ったけれど、ジェーンを追うのに精いっぱいで、いつしか、空腹を忘れていた。
崖の周りを、四分の一ほど歩いただろうか。
空にかかる煙のせいで、時間が測れないが、おそらくは昼過ぎだろう。
ジェーンのおなかが、ぐうっと鳴る。
ジェーンは固まった肩をぐるぐる回して、手帳を閉じた。
後ろを見て、ぎょっとする。
ジョンがいた。
「……え、そうなの? だったら教えてよ」
ジェーンは足元に言った。
「知ってるでしょ。私、、仕事始めたら、周りが見えなくなるんだって」
ジェーンは手帳をしまって、ジョンの前にしゃがんだ。
「あなたもよ。そのうち飽きて、どっかに行くと思ってたのに」
ジョンは、重たそうに首を持ち上げて、「へへ……」と、不器用に笑ってみせる。歩き疲れたのか、額にはびっしり汗をかいている。うまく呼吸ができないのか、肩が上下していた。
ジェーンが、眉をひそめて、ジョンの肩に手を置こうとした。
そのとき——
——ジョンの体が、前のめりに倒れた。
ジェーンはあわてず、ジョンを抱きとめた。
風でも抱いているみたいに、軽かった。
呼びかけても返事がない。
額に触れると、熱っぽく、粘っこい汗をかいていた。
ジェーンは、ジョンを抱きあげて、近くの街人に、病院の場所をたずねた。
街の病院は、北側の地域にひとつ、南側の地域にひとつ、あるらしい。
北の病院には、そもそも行けないらしく、ジェーンは街の南を目指した。
木造の家屋が建ちならぶ通りに、その病院はあった。
工場の排煙が立ちこめているわりに、木目のそろった、清潔な見た目をしている。
病院の待合室には、大勢の患者がいた。だれもかれも痩せていて、貧相な服を着ていて、あちこちで苦しそうな咳をしている。
しばらく待つと、ジェーンが診察室に通された。
ベッドの上にジョンを寝かせ、医者が来るのを待つ。
ほどなく、白髭をたくわえた医者がやってきた。
老年の医者は、皺だらけの手で、ジョンの頬や喉をさわって、聴診器を胸に当てた。
「あんた、見ない顔だな」
医者が言った。
「神様とやらを拝みに来たのかな」
「ただの旅人よ。みんなが思ってるような目的で、ここに来たわけじゃない」
「そうかい」
医者は聴診器を外して、
「このあたりで肺病が流行っているが、この子のはそうじゃない。単なる栄養失調。腹いっぱい食わせれば、すぐに良くなるよ」
医者は、回転いすを回して、ジェーンに向いた。
「この子とはどこで出会った?」
「街に来たときに、たまたまね。仕事がほしいみたい」
医者は、うんざりしたように、首を横にふって、
「わしが子どもの頃は、もっときれいな街だった。それが、岩山から有用な鉱石が採れることがわかってから、街のネジが狂いはじめた。たちまち工場が建って、街は煙だらけになった。余所の街の富豪が、こぞって街にやってきて、金だの、権利だのと、主張しだした。横並びだった街人は、階級社会の餌食になった。食料も、服も、澄む場所も、すべて役人どもの管理下に置かれて……街の北側に入れん、と聞いたことがあるか? あそこはいま、上流階級の街になっとるからな」
医者は、皺だらけの手で、ジョンの頭をなでた。
「悪いことは言わん。今日明日にでも、街を出なさい。この街に、あんたが楽しめるようなものなどありはしない。長居するほど、嫌なものを見ることになる」
「そういうわけにもいかなくてね」
ジェーンは言った。
「観光じゃなくて、仕事で来たから」
医者は、これ以上言ってもしかたない、というように、ため息をついた。
ジェーンは聞いた。
「その子、あなたのお孫さん?」
「この街の子はみんな、わしの孫みたいなものだ。子どもはみんな可愛い。それに比べて、わしは老い先短い、ただの爺さ。わしらの腹よりずっと、この子らの腹を満たしてやったほうが、良いというのに……」
医者は聞いた。
「あんた、この子を連れていく気はないかい?」
「旅に? まさか」
ジェーンは言った。
「旅の荷物は増やしたくない」
「……そうだろうね」
医者は、悲しそうな声をしていた。
これ以上ここにいても、できることはない。
ジェーンは、診察代と、ジョンの案内代を置いて、病院を出た。
しばらく歩いて、ジェーンは、灰色の街を見回した。
足元に言う。
「予定が変わった」
足元から、なにか言われたのだろう。
ジェーンは皮肉っぽく頬をゆがめて、
「ちょっとばかし、見て回ろうじゃないの。あの足を神様と崇める、この街を」
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