小話 湖畔の足
——足の汗でできた湖がある。
その噂は、瞬く間に旅人のあいだで広まった。
広葉樹の森に囲まれた、うつくしい湖だ。湖は鏡のように透きとおっていて、空の青と、森の緑が、湖面に反射している。白い木材でつくられたロッジの数々が、湖畔に建ち並び、絶好の行楽地といった雰囲気をかもしだしている。
スゥは、湖のど真ん中にある、肌色の足を観察した。
骨格と、縮れたすね毛からして、壮年の男性のものだろう。特筆すべきは、やはり、巨大な足の肌から、だくだくと汗が流れていることだ。その汗が、足の周りにたまって、湖をつくっている。くるぶしの下は、湖に沈んでいて、双眼鏡でも確認できなかった。
スゥは、双眼鏡から顔を離して、湖畔を見渡した。
家族連れがいる。
釣り人がいる。
背もたれのあるチェアに腰かけて、のんびり昼寝をしている人がいる。
だれもが、思い思いの休日を過ごしているなか、子どもたちの何人かが、湖に飛び込んで、泳いでいるのを見かけた。
スゥはなんとも言えない表情を浮かべつつ、近くにいた釣り人に、声をかけた。
「……なにしてるんですか?」
「見てのとおり、釣りだよ」
釣り人は、慣れた手つきで竿を振って、湖に釣り糸を飛ばす。
「いい魚が釣れるんだ」
と言っているあいだに、さっそく、一匹かかったらしい、
釣り人がリールを回すと、青い背中をした魚が釣れた。青い鱗のタイのようにも見えるし、アユのようにも見える。
スゥはたずねた。
「なんて名前の魚ですか?」
「さあ、なんだろうね? アジでもないし、アユでもないし」
「川魚ですか?」
「何魚だろうね。足の湖にあるから、足魚じゃないかな」
釣り人は、足魚をクーラーボックスに入れて、また竿を投げた。
スゥは、がさごそと音がするクーラーボックスを見つめて、
「……その魚、どうするんですか?」
「どうするって」
釣り人がきょとんと、スゥを見つめた。
「食べるでしょ」
「食べるんですか? この魚を?」
「ここの魚、焼くと香ばしくて、おいしいんだよ。調味料もいらないんだ。この湖の魚は、さいしょから塩分がしっかり含まれててね。海の魚よりおいしいよ」
スゥは、胸の奥にたまった息を、深く、深く吐き出して、
「……毒とか」
「え?」
「こう、悪い物質とか入ってるんじゃ」
「それは心配いらない」
釣り人ははっきり言った。
「この湖に興味を持った研究者がいてね。調べた結果、どの品種も、毒なんてないし、悪いものも含まれていなかったんだと」
「それ、ほんとうですか?」
「ためしてみればいい」
釣り人は、湖の向こうにある、ロッジのひとつを指さした。
「あの宿で、湖の魚を使った料理を、提供している。食べてみれば、わかるよ」
スゥは、納得いかないような顔を浮かべて、釣り人のそばを離れた。
「食べるのか?」とブーツが言う。
「食べたくない」
「毒はないって言ってただろ」
「考えてみてよ。この湖、あの足から流れてる汗でできてるんだよ? そこに住んでる魚なんて、どう考えたって、食べられるわけない」
「でもよ、」
ブーツが言った。
「おまえ、さっきの釣り人が言ってた宿に泊まるじゃねえか。夕飯は、間違いなく、魚料理だぞ?」
スゥは、両手で顔をおおった。
——その日の夜。
言われていたとおり、スゥの前に、魚料理が並べられた。焼き魚、煮魚……刺身もある。店主は「この湖で採れた魚さ!」と、自信満々に言っていた。
スゥは、ナイフとフォークを持って、かたまった。
しかし、長旅の後だ、
スゥのおなかが、悲鳴を上げている。
迷いに迷った末。
スゥは、焼き魚にフォークを突き刺して、一息にほおばった。口から飛び出ないように、唇を固く結んで、がじ、がじ、とかみしめる。
「………」
「どうだ?」
「……っ!」
スゥは目を見開いて、煮魚に手をのばした。
それを飲みこむより先に、白身魚の刺身にもフォークを刺す。
——またたくまに、テーブルが空っぽになる。
食後のお茶を飲みながら、スゥは言った。
「食わず嫌いはよくない」
またひとつ、学びを得た。
——湖畔の足 了




