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——ブティックのある通りから、少し離れた、小さなカフェ。
オーク調の落ち着いた雰囲気のお店で、パスタ料理が人気らしい。
ジェフは行きつけなのか、席に着くなり、店主の男性と雑談を交わしはじめた。
店主はお冷を用意すると、厨房に引っこんでいく。
ジェフは、申し訳なさそうな顔をして、
「すいません、話しこんじゃって」
「いえ。仲がいいんですね」
「幼馴染なんです。ずっと店を構えたいって言ってて、それを現実にしてしまった。あいつ、本気で料理の勉強をするのに、わざわざ東の果ての街まで行ったんですよ。本当にすごいやつです」
ジェフは、自分のことのように、店主を自慢した。
つられて、スゥも口元がゆるんでしまう。
ジェフがたずねた。
「スゥさんは、どうして、旅をしようと思ったんですか?」
「わたしは——」
グラスに浮かんだ水滴が、ゆっくり、下に落ちていく。
「——旅を教えてくれたひとがいたんです。もし、そのひとに出会わなかったら、わたしは、ぜったい、自分の街から出ることはできませんでした」
「そのひとも旅人だったんですか?」
「はい。世界じゅうの足を見て回っていたみたいです」
スゥは、窓の外に、目を向けた。
レストランの表の通りは、狭く、日陰におおわれている。
窓ガラスには、いまのスゥが映っている。
しかし、スゥの目には、ここではない、別の街が映っていた。
陽ざしの届かない暗い路地。
狭いアパート、建ち並ぶ工場群。
煙突から黒煙が立ち上り、岩山に囲まれた丸い空を、灰色に染めている。
ふと、ガラスに映るスゥの隣に、ひょこっと、幼い自分が顔を出した。
薄っぺらな服を着て。
ぼろぼろの靴を履いていて。
みすぼらしい少女は、両目をぎらぎら光らせて、通りがかるひとたちを、じっと観察している。少女はおなかを空かしている。おなかをいっぱいにするために、やることはもう決まっている。いま、その少女が、旅行客らしい女性を見つけて、とことこ、とことこ、と近づいて……
……軽く首を振る。
想像の景色を払うと、窓ガラスに、現在のスゥがもどってきた。
スゥは言った。
「そのひとがいてくれたから、いまのわたしがあります。ほんのちょっとした出会いが、自分の生き方とか、考え方とか、そういうのをぜんぶ、変えてしまう。人と人の出会いって、すごく不思議だなあって、いつも思います」
「すてきな考えですね」
ジェフがやさしく目を細めて、
「ぼくもそう思います。人生を変える出会いっていうのは、いつ訪れるかわからない。きっと、ぼくとスゥさんの出会いも、そういうものなんだなって」
穏やかな沈黙が、ふたりを包んでいく。
スゥがそれとなく視線をもどすと、ジェフと目が合った。
首筋から後ろ頭にかけて、じんわり、熱がこもっていく。
気恥ずかしくてうつむきそうになったけど、ジェフの視線にあてられて、スゥは目をそらせなかった。
店主が、スープパスタを運んでくる。底の深い丸皿には、鮮やかな赤色のトマトスープが盛られている。赤いスープと、乳白色のパスタと、緑のパセリ。いくつか香辛料を混ぜているのか、独特の香ばしい香りが、湯気といっしょに、スゥの胸に広がっていく。
ジェフの視線が「どうぞ」と言う。
スゥは、スプーンとフォークを手に取って、パスタをくるくる巻いていく。
食べ方、あってるかな。
長く旅をしてきて、街々でいろんな食べ方を見てきたけど、この食べ方でいいのか、自信がない。
どうしてこんなに気をつかっているのか、自分でもよくわからなくなっているあいだに、パスタを口に運んでいた。そのあまりのおいしさに、スゥは次の一口に、フォークを刺していた。食べ方がどうのと悩んでいたのも、すっかり忘れていた。
ジェフはおだやかに微笑んでいた。相手の食べ方を気にする男ではなかった。目の前の少女が、店主の料理をおいしそうに食べていることが、うれしかった。
ふたりはしばらく、パスタを食べるのに夢中になった。
——食後。
店主は、きれいになった丸皿をさげて、食後のコーヒーを持ってきた。
スゥはおなかがいっぱいで、ほっこりした気持ちで、コーヒーを飲む。
ジェフが言った。
「スゥさんは、いつまでこの街にいらっしゃいますか?」
「来週……四日後のコンテストが終わってから、出発しようと思っています」
「そうですか」
ジェフが何事か思案するように、目を伏せた。
言うべきことがある、それを口にするまでの余白で、腹を決めようとしている。
スゥは、ジェフの言葉を待った。ただ言葉を待っているだけなのに、心臓が跳ねて、仕方がない。なんとなくトレッキングブーツが茶化してくるような気がして、スゥは両足に力をこめて、靴底を踏みつけた。
たくさん待ったような、ぜんぜん待たなかったような、そんな時間が過ぎて。
ジェフが顔を上げる。
おだやかさの消えた、真剣な目をしていた。
「こんなこと、街に来て間もない、旅人の方に言うべきではないかもしれませんが」
「なんですか?」
スゥは、心の居住まいを正した。
胸とお腹がどくどく脈打っている。
次の言葉を期待しているけれど、返事は決まっていた。
旅をやめるつもりはない。
だから、ごめんなさい。
それでも、年頃の少女らしい想像が止まらない。ジェフの口が開くのに合わせて、その想像が、突風のように、スゥの脳裏を駆け抜けていった。
ジェフが言った。
「お願いがあります」
ジェフは、まばたきを止めて、スゥを見つめた。
二度、三度、胸で大きく息をして。
……ジェフは、苦々しく、頬をゆがめた。
「次のコンテスト、棄権してください」
「……」
静かな店内の、心地よく、おだやかな空気。
それが、どんどん重さを増して、息苦しいものに変わっていく。
スゥは、ジェフが話すのを、ただただ聞いていた。




