第三十話 受け取った、あなたの色
弦の音が鳴った、その刹那。
わたくしの手が、彼の手を、掴んだ。
血に濡れた、大きな手。視えない色の代わりに、その手の感触だけが、たしかに、そこにあった。わたくしは、ありったけの力で、その腕を、自分のほうへ引いた。
「信じます、あなたを!」
叫んでいた。視えなくても。確かめられなくても。この人の誠を、受け取ると決めた、その心のままに。
腕を引かれ、セオドール様の体が、大きく傾ぐ。次の瞬間、鈍い音とともに、鏃が、彼の肩に突き立った。心の臓を、狙っていたはずの、それが。わたくしが引いた、ほんの半歩の差で、急所を、逸れたのだ。
彼が、短く呻いた。けれど、倒れはしなかった。肩を射抜かれてなお、その足は、わたくしを庇う位置に、踏みとどまっている。
その、あまりに露骨な凶行が、凍りついていた広間を、打ち砕いた。
「宰相ヴォスラーを、捕らえよ!」
フィオナ殿下の号令が、今度こそ、近衛たちを動かした。王の御前で、招かれた娘とその後見に、刃どころか、暗殺の矢を放った。その事実の前では、宰相の権勢も、もはや盾にはならない。躊躇っていた近衛長が、ついに剣を抜く。忠誠を取り戻した諸侯たちも、次々と、宰相の兵へ立ち向かっていった。
潮目は、完全に、覆った。
「離せ、下郎ども! わたしを、誰だと心得る!」
取り押さえられながら、ヴォスラーは喚いた。その胸の色を、わたくしは、最後に一度だけ、視た。権勢欲の鈍色は、もう濁りきって、崩れかけている。剥き出しになった黒い害意ばかりが、見苦しく、のたうっていた。
玉座の老王が、震える声で、けれど、はっきりと告げた。
「侯爵ヴォスラー。そなたの官位を、剥奪する。王の名において」
三百年、歪められ続けてきた力を、ふたたび道具にしようとした男は、こうして、みずからの凶行によって、その座から転げ落ちた。誰かに断罪されたのでは、ない。偽りを積み、力に驕った者が、その重みで、自壊したのだ。
騒乱が収まったあと。
広間の隅で、わたくしは、セオドール様の肩の傷に、手巾を、強く押し当てていた。血の匂いと、彼の浅い息。医師が呼ばれ、応急の手当てが、施されていく。
「無茶を、なさって」わたくしは、声を震わせた。「あんなに無防備に、庇うなんて」
「貴女こそ」彼は、かすかに口の端を上げた。「逃げろと、言ったはずだ」
「もう、あなたの言うことばかりは、聞きません」
彼の、無事なほうの手が、ゆっくりと持ち上がった。自分の首元へ。そこにずっと下げられていた、黒い石の護符の紐に、指をかける。
守り手の家が、三百年、外すことを禁じてきた、無彩の護符。過去の痛みゆえに、この人が、決して外そうとしなかった、心の蓋。
それを、彼は、みずからの手で、引きちぎるように、外した。
「セオドール様……?」
「アリシア」彼は、わたくしの目を、まっすぐに見た。「これで、私の色が、視えるか」
わたくしは、息を詰めて、その胸を視ようとした。護符は、もう、ない。ならば、今度こそ。
けれど、やはり、何も視えなかった。彼の胸は、以前と少しも変わらず、静かな無彩のまま。色の、ひとかけらも、そこには灯らない。
視えない。護符を外してさえ、視えない。
その意味に、わたくしの心臓が、大きく跳ねた。ああ、やはり、そうだったのだ。昨夜、胸に灯った、あの願いは。
「視えなくて、いい」彼は、静かに言った。いつもは言葉の乏しいその人が、今日だけは、ひとつひとつ確かめるように、続けた。「貴女に、私の色が視えないのは。私の心が、初めて会ったあの日から、ずっと、貴女にだけ、向いているからだ。誰かへ放たれる色ではない。貴女へ、真っすぐに届く色だ。だから、視えない。視ようと、しなくていい。ただ、受け取ってくれ。私の、この想いを」
視るのでは、なく。受け取る。
女神の言葉が、母の遺言が、昨夜の答えが、この瞬間、ひとつに繋がった。わたくしが、生まれてから一度も、自分に向けられた色を視られなかったのは。誰にも愛されなかったからでは、なかった。ただ、愛は、視るものではなく、こうして受け取るものだったから。
そして、この人の色が、護符を外しても視えないのは。この人の想いが、ただひとり、わたくしにだけ、向けられているから。
涙が、あふれた。堰を切って、頬を伝い落ちていく。視えない。何も、視えない。それなのに、生まれて初めて、わたくしははっきりと、知った。愛されている、と。この胸に、真っすぐ届くあたたかな何かを、確かに、受け取ったのだ。色を、視ることなく。
「はい」わたくしは、彼の手を、両手で包んだ。「受け取り、ます。ちゃんと。あなたの、その、視えない色を」
長いあいだ、閉ざされていた孤独が、音もなく、終わった。
視る力を持ちながら、わたくしは、いちばん近くにあった愛だけを、ずっと、見落としてきた。いいえ、見落としていたのでは、ない。視えないその愛は、生まれたときから、この胸に、届いていた。ただ、わたくしが、それを受け取る勇気を、持てずにいただけ。その勇気を、この不器用な人が、雪深い辺境で、ひと冬かけて、少しずつ、育ててくれたのだ。
辺境に、春が来た。
雪が解け、ヴァレンシュタインの丘に若草が芽吹くころ、わたくしは、セオドール様と、ささやかな式を挙げた。城の広間に領民が集い、ネルは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、誰よりも喜んでくれた。ガロンは、あの書庫の、わたくしに似た巫女の肖像へ、そっと報告に行ったらしい。リタは、摘んだばかりの若草を、抱えきれないほどの花束にして、運んできた。
式のあいだ、開け放った窓からは、雪解け水の匂いと、遠い羊の鳴き声が、絶え間なく流れ込んでいた。長い冬を越えた辺境の、みずみずしい春の匂い。婚約破棄の醜聞にうつむいて、北の果てへ送られてきたあの娘が、こんな日を迎えるとは、あの夜会に居並んだ誰が、想像しただろう。
集う人々の胸に灯る色を、わたくしは、もう恐れずに視る。金色の、若草色の、澄んだ青の。労りと祝福のあたたかな色たちが、春の光の中で、揺れていた。この目は、呪いではない。人の本物の想いを見出し、いつか、偽りに傷ついた誰かを、本物へと導くための、女神の贈りものだ。
隣に立つ人の胸だけは、今も、視えない。
けれど、もう、寂しくはなかった。視えないその色こそが、この人の想いが、誰よりも深く、わたくしへ向いている、何よりの証なのだから。
式の帰り道、わたくしは、そっと、夫となった人の手に、指を絡めた。傷の癒えかけた、大きな手。
「何を、視ている」彼が、静かに尋ねた。
「あなたの色を、探しておりましたの」わたくしは、微笑んだ。「でも、やっぱり、視えません」
「……そうか」
「ええ。視えなくて、よかった」
その手が、ほんの少し、強く握り返してきた。言葉は、それきり、なかった。けれど、掌の温もりが、どんな睦言よりも、雄弁に、語っていた。
視えなくても、わたくしは、知っている。
これが、愛なのだと。




