第二十九話 視えないその手を
時が、引き伸ばされたように、遅くなった。
最初の兵の剣が、セオドール様の背へ、振り下ろされる。避けもせず、彼は半身をひねり、その一撃を、肩で受け止めた。布の裂ける、鈍い音。じわりと、赤がにじむ。それでも、彼は倒れなかった。次の刹那には、その手が相手の手首を掴み、ひねり上げている。奪い取った剣の柄で、兵の鳩尾を、深く突いた。
丸腰だったはずのその人は、たった数瞬のあいだに、二人の兵を、床へ沈めていた。武門の辺境伯。噂の「氷」は、伊達では、なかったのだ。
広間は、修羅場と化していた。諸侯は、悲鳴をあげて壁際へ逃げ惑い、色硝子の下を、右往左往する。玉座の老王が、震える手で、何ごとかを叫んだ。けれど、その声は、混乱に呑まれて、届かない。王を守るはずの近衛たちは、宰相の権勢を恐れてか、柄に手をかけたまま、動けずにいた。フィオナ殿下が、その近衛を、鋭く叱咤している。
「近衛は何をしておる! これは王の御前での、あるまじき私闘であるぞ。宰相の兵を、今すぐ取り押さえよ!」フィオナ殿下の声が、広間を裂いた。けれど、近衛長は、宰相の顔色をうかがい、足を踏み出せずにいる。この国の実権が、玉座ではなく、あの深紅の長衣にあることを、その一瞬の躊躇が、痛いほど、物語っていた。
誰も、すぐには、動けない。
その隙に、宰相の兵は、まだ幾人も、こちらへ迫ってくる。奪った剣を低く構え、セオドール様は、わたくしを背にかばい続けた。肩から滴る血が、磨かれた大理石に、点々と、赤い印を落としていく。鉄の匂いが、鼻をついた。
三人目の兵が、床を蹴った。その突きを、セオドール様は剣で受け流し、返す刃で、相手の得物を弾き飛ばす。けれど、体勢を崩したその脇腹へ、別の兵の切っ先が、浅く掠めた。新たな赤が、白い床に、飛ぶ。彼の息が、また、ひとつ乱れた。一人また一人と沈めても、宰相の兵は、次から次へと、間合いを詰めてくる。数の差は、いかんともしがたかった。
「アリシア」肩越しに、鋭く。「フィオナ殿下のもとへ、走れ。ここは、私が食い止める」
「そんな……!」
「行け」短く、彼は命じた。「貴女は、生きろ。それだけで、いい」
生きろ、と、彼は言った。
わたくし一人を、逃がすために。自分の血と、引き換えに。その広い背中は、いつものように、わたくしと、痛みとのあいだに、立ちはだかっている。凍える峠で、外套を肩にかけてくれたときと、同じ背中。野盗の刃から庇って、左腕に傷を負ったときと、同じ背中。雪をかぶって、門の前で、わたくしを待っていたときと、同じ背中だった。
言われるまま、わたくしは、背を向けて、走ろうとした。足が、一歩、後ろへ下がる。
けれど、そこで、動けなくなった。
これで、いいのか。
またしても、この人の誠実さに、守られるだけで。視えないから信じられないと涙をこぼし、皆を巻き込むまいと独りで消えようとし、そうして今も、この人の背に、庇われている。差し出されるものを、受け取ることさえ怖がって、逃げてばかりいた。ここで走れば、わたくしは、あの夜会でうつむいていた自分と、何ひとつ、変わらない。
あのとき、わたくしは、偽りの愛を見抜きながら、ただ黙って、うつむくことしか、できなかった。抗う術も、守るべき人も、持たなかったから。けれど、今は、違う。守りたい人が、目の前で、血を流している。わたくしの、視えないその想いを、命を賭して、示してくれている。
昨夜、胸に灯った、あの答えが、よみがえった。
愛は、視るものではなく、受け取るもの。そして、きっと、受け取った想いを、相手へと、返すこと。片方が守り、片方が守られるだけの間柄では、ない。並んで立つと、この人は言ってくれた。ならば、その言葉に、応えるのは、今だ。証を立てるべきは、口先ではなく、この足で。
下がりかけた足を、わたくしは、止めた。奥歯を、強く噛みしめる。そして、背を向ける代わりに、血を流すその人の隣へと、震える膝を叱りつけて、進み出た。
「何をしている、下がれ!」初めて、彼の声が、乱れた。振り向いたその目に、はっきりと、狼狽が走る。
「いやです」わたくしは、首を横に振った。「もう、あなたの後ろで、震えているだけの、わたくしでは、ありません。並んで立つと、決めたのです。あなたと、そう」
彼の隣に立つと、迫る兵の刃も、玉座の下に佇む宰相の、冷ややかな眼差しも、まっすぐに見えた。迫る刃に、背筋が、凍りつく。膝は、まだ、みっともなく震えていた。それでも、この人を独りで血に沈ませておくくらいなら、わたくしは、この場所を選ぶ。守られる娘ではなく、共に立つ者として。
不思議と、震えは、少しずつ、鎮まっていった。恐怖が消えたのではない。ただ、それよりも確かなものが、胸の芯に、灯っていた。この人を信じる、という、たったひとつの決意が。
わたくしは、震える手を、そっと、彼のほうへ伸ばした。剣を握る、血に濡れた、その手へ。視えない色の代わりに、この手のぬくもりを受け取り、そして、わたくしの信頼を、返すために。
視えなくて、いい。もう、視ようとは、しない。この人が、幾度もその身をもって示してくれた誠を、今度こそ、わたくしが受け取る番だ。たとえ、色のひとかけらも、見えなくとも。
その指先が、あと少しで、触れようとした、刹那。
宰相の、押し殺した声が、響いた。
「小賢しい」
見れば、あの男の手には、いつのまにか、小さな石弓が握られていた。その鏃が、まっすぐ、セオドール様の胸へと、向けられている。わたくしを庇うことに気を取られ、無防備になった、その左胸へ。
時が、氷のように、固まった。宰相の指が、引き金にかかる。あの黒い害意が、鏃の先で、冷たく凝っているのが、視えた。声を上げる暇も、駆け寄る間も、ない。わたくしの手は、まだ、彼の手に、届いていない。あと、指の幅、ひとつぶんを、残して。
放たれる。そう悟った瞬間には、もう、遅かった。
弦の、乾いた音が、鳴った。
伸ばした手は、届くのか。視えない愛を信じきって、この人を、守れるのか。朝の光の中で、すべてが、宙づりになった――。




