◆庭師
暁の頃に、目が覚めた。
日が昇る前の空は、夜の気配を残した薄藍色をしていた。
室内に忍び入る、水気を含んだ冷たい空気に引きずられて、目が冴えてくる。光源のわからぬほどの薄明に、静かな庭先で草の葉に溜まった露が輝く。
将志は着流しの前を合わせてから褞袍を羽織って庭におりた。
須藤邸の庭園ほどではないけれども、西宮家の本邸であるこの屋敷にも庭園がある。正面の門から屋敷の入り口までをつなぐ石畳の湾曲した小道とその周囲の花壇を世話しているのは、この屋敷に住み込みで仕える専属の庭師。この庭の花々を甘やかした張本人である。
建物を囲む敷地の中には、来客どころか屋敷の者も滅多に足を踏み入れない領域があった。庭園とは呼べない、人に見せることを目的としていない小さな庭。将志はその場所を目指し、小道の脇に入っていく。その場所は花壇や低木によって、玄関に至る小道からはうまく隠されている。背の高い菜の花の向こうに、求めていた姿はすぐ見つかった。
将志の下駄が石を蹴る音に気づいたのか、老齢の庭師は顔をあげて振り向いた。顔の皺を深くして、将志に微笑む。懐かしい声と顔が将志を歓迎する。
「おはようございます。この花壇にいらっしゃるのは久しぶりでございますね、坊ちゃん」
この男も将志のことを坊ちゃん扱いする。無理もない、将志が彼に最も懐いていたのは初等学校の頃だ。成長するにつれ、将志はこの奥まった裏庭には滅多に足を運ばなくなった。
昔と変わらぬ庭師の応対に、将志はほっとしつつも呆れたような、困った照れ笑いを浮かべた。
「もう坊ちゃんはやめてくれ。僕もいい年なのだから」
草を抜き取る庭師の手は、将志の記憶にあるより節くれ立っている。肉が薄くなった。曲がった背中や、顎から首元の深い窪みを見るにつけ、年を取ったなと思わずにはいられない。当然か、ほんの子どもだった将志が大学を卒業するような年になったのだから。
屋敷に住む他の誰も寄りつかないこの裏庭は、将志が庭師の男と気兼ねなく言葉を交わせる唯一の場所だった。将志は庭師に、美枝子の桜のことを話したかったのである。あの桜について問える相手を、この老爺の他に知らない。
この庭師こそ、樹や草花の声を聴き、それらと語り合う術を幼き日の将志に教えてくれた人物なのである。将志が知る中では、美枝子を除いて唯一人、植物と話すことのできる者。
「どうなすったんです、こんな朝早くに」
「いや、中途半端な時間に寝たせいか、よく眠れなくてね。目が覚めてしまったんだ」
昔はよく懐いていたものの、樹木と話すことがなくなってからは庭師と話すこともなくなっていた。久々に会って話をするのは、奇妙な心地がした。安堵感と後ろめたさが入り混じる。
「どうだい、変わりなくやっているか」
「ええ、おかげさまで」
「庭はどうだい。昨日は帰りが遅かったから、僕はまだろくに見ていないのだけど。座敷に面した庭に、もう桜が咲いていたな」
「はい、もうじきに満開でございましょう。彦次郎さまはよくお座敷の戸を開けてご覧になりますよ」
「ああ。昨日、夜に酒を酌み交わしたときもそうだったよ。桜を見ていると、医者も政治家も途端に風流人になるようだ。まあ、酔っていただけかもしれないけどね」
口を突いて出るのは当たり障りのない挨拶や気安い戯ればかりで、肝心なことが言い出せない。
己が良くも悪くも面の皮が厚いのを、将志は自覚している。頭の中の、まだ形も名も繕っていない曖昧な部分を外に出すのは、滅法苦手だ。
「将志さまも、お変わりないようで」
「そうだね、僕自身はあまり」
近頃勤めるようになった公館も、大学の頃から手伝いに出入りしていた建物なので新鮮味はなかった。相変わらず、父や大学に頼まれる用事もある。すぐに特別な職に就かなければならない身分でもないため、父や大学と関係するところで華族として事務と社交をやっていれば済むのである。
将志の東京での生活ぶりを聞いた庭師が安堵をその頬に刻んでいるのを見ると、変わったよと言いたくなる。申し訳ないような、情けないような気持ちで、荒んだ笑みが出そうになる。
庭師と親しくしていた頃とは変わってしまった。この庭にいても何も聴こえないのが、その証拠だ。そしてそのことを、庭師もわかっているはずだ。
「……邪魔ではなかったかい」
何のことか、というふうに、庭師が将志を見た。
「その、僕が今ここに来て、連中と話す邪魔にならなかったかと思って……」
将志は庭師の視線から逃れるように、灌木の方に目をやる。連中、とはもちろん、この庭の植物のことだ。
「とんでもございません」
それから、庭師はふと寂しそうな顔をして、「もう、お聴きになることはありませんか」と言った。将志を責めるような声音ではなかった。
将志は素直に頷いた。
「ああ、もう何年もね。……だが、気になることがあるんだ。それを聞きたくて、おまえに会いに来た」
「何でございましょう」
「須藤伯爵の庭園の桜のことだ」
こう言えば、この庭師には通じるはずだと踏んでいた。
庭師は、維新の前から西宮家に仕えている古株である。最後の大名であった将志の祖父の頃からこの屋敷の庭を世話してきたというが、生まれは江戸と聞いている。造園に関わる職人ならば、須藤伯爵邸の庭園を知っていよう。西洋風の技術を取り入れた庭園に造りかえたのは今の伯爵だが、あの広い庭園そのものは何代も前から須藤家が誇ってきたものだ。
「桜といっても、並木のほうではないんだ。並木道のはずれにある古い大樹だ。知っているか」
「はい、存じております」
庭師によると、あの樹はずいぶんと古くからあり、須藤邸の庭園がどのように改装されようがあの場所に残されてきたものらしい。
将志が見た限りでは剪定された様子もなかったし、今となっては為すがまま放置されている状態と見える。
「かつては、あの樹のあたりまで建物がありました」
「桜並木があるのに?」
「今どのようになっているかは存じ上げませんが、あっしが若かりし頃、造園のお手伝いに窺った時は、その樹も含め桜が何本も並んだ庭だったのです。並木といえる形に整えられてはおりませんでした」
屋敷の跡を小道にするために、並木の桜は念入りに調整を加えられたのであろう。道を塞ぐものは除かれ、枝振りも揃えられた。そうでなければ、緩やかに曲がりくねる小道に沿ってあんなにも美しく桜が並ぶはずがない。もとあった桜を生かすように、小道が造られたのだ。
「待て、おまえが見たときはまだ並木がなく、他の樹と一緒にあったのに、僕の言っている樹がどれかわかるのか?」
「一本だけ、他よりひとまわり大きく立派な桜があったのです。それのことをおっしゃっているのではありませんか」
「そうか、たぶんそれだろう。しかし、よくそんな昔見た樹のことを憶えているな」
そこでふと、将志は気づいた。
庭師が、実際にあの樹に会ったことがあるというのなら、可能性はある。
「まさか、話をした?」
「いいえ。静かなものでした。あっしも、無理に話しかけようとはせなんだのですが」
あの樹がどうかしましたか、と庭師は問い返す。
「その桜が、僕に……」
話しかけてきたんだ、と言いかけたが、将志は急に口を噤んだ。本当にそうだろうかと思いとどまる。
桜は本当に、将志を認めて話しかけてきたのだろうか。将志はもう、樹と言葉を交わす資格を失っているというのに。現に、将志の呼びかけに桜はこたえなかった。
「その、僕は、あの桜の声を聴いたような気がしたんだ」
庭師が目を瞠った。
「桜は、なんと」
「助けて、と言っていた。あの桜は、何かがおかしい。尋常でないことが起きているんだ」
将志は、あの桜のことを庭師に事細かに説明した。花の色や樹の高さの異常なことを。
そして、美枝子のことも。
「美枝子さんは、樹や草花の声が聴けるんだ。おまえや、以前の僕のようにね。あの桜とよく話をしていた」
彼女は、桜の異変に気づいているはずだ。将志が気づいたよりも早くから。それなのに、どうして美枝子は、将志にそのことを言わなかったのか。将志が二度目の求婚をしたとき、二人は一緒にあの桜の前に立った。言う機会はあったはずだ。しかし美枝子は何も言わなかった。将志の求婚を拒んだ理由にも、口を閉ざしている。
どうして美枝子は将志に何も語ろうとしないのか。将志はそれを突き止めたかった。
植物と話すというのがどういうことか、将志は知っている。すでに将志自身の力は失われているとしても、彼女がもつ力のことは自分のことのようにわかってやれると思ってこれまで接してきた。
けれども、彼女にとってはそうではなかったということなのか。
「あの桜のことを、美枝子さんはとても大事にしていた。桜は僕よりも先に美枝子さんに助けてと訴えたに違いない。桜が苦しんでいるのを見て、美枝子さんは悲しんでいるだろう。僕には何も言わないけれどね。でも、他でもないあの桜が、僕に助けてと言ったんだ。だから僕はあの桜に何が起こっているのかを知りたい」
「もう一度、草木の声を聴きたいと」
「そうだ。声を聴き、話をする力を取り戻したい。あの力があれば、僕はあの桜を助け、美枝子さんのことをわかってやることができるかもしれない」
二度も求婚を拒まれて、はじめて疑った。彼女のことをわかってやれると思っていたのは、単なる独りよがりにすぎなかったのではないかと。
沈む桜にようやく気づき、かけた声が届かなかった、あの時。どうして今、彼女と同じに声を聴くことができないのだろうと、将志の心は打ちのめされた。昔のように声を聴くことができたら、彼女は自分にすべてを打ち明けてくれたのではないか。そう思うと、歯痒くてならなかった。
彼女が、本当は何もわかっていない将志に愛想を尽かしたのかもしれぬとまで考えた。独りよがりの哀れな男が仮にも侯爵家の次男坊だから、強く突き放すこともできず、世間体を気にしてこちらが穏便に話を済ませるのを期待しているのだとしても、おかしくはないと思った。
けれども、そう考えるには求婚を拒んだときの彼女の表情が気になった。失望も軽蔑もなかったあの悩ましげな顔は、将志に何かを隠している証拠に見えた。何が彼女にあのような顔をさせるのか、将志はそれが知りたかった。
「教えてほしいんだ。どうすれば、もう一度草木と話せるようになるのか」
庭師は、ゆっくりと首を横に振った。
「おわかりでしょう、教えられるようなものでないことは。――聴こえん者には、わからんのです」
「でも、僕は昔ちゃんと聴こえた。植物の声が聴こえ、話しかけることができる者があるのを知っているんだぞ。それとも、これは一度失われたら戻らない種類の力なのかい。改めて身につけることはできない?」
「ある意味では、そうとも言えるかもしれませんが……」
「僕は桜の声を聴いた。ずっと聴こえなくなっていたのに、確かに聴いたんだ。これは、まだ僕が力を完全には失っていないということにはならないか」
庭師は、黙り込んで思案し、やがて将志に向きなおった。
「将志さま。聴こえなくなったのは、いつからです」
「最後に草木と話をしたのは、だいたい中等学校の頃くらいだと思うけど……。具体的にいつどの樹が最後だったかまでは、憶えていないよ」
「なぜ聴こえなくなったか、考えたことはおありですか」
「なぜ、聴こえなくなったか……?」
「はい。そして、そもそもなぜ聴こえるのか。聴こえる者と聴こえない者があって、どうして自分は聴こえるのだろうと、不思議に思ったことは? 聴こえる者と聴こえない者との間にどんな差があるのか」
「草木の方が選ぶんだろう。昔、おまえが言っていたじゃないか。草木は気に入った人間に声をかけるんだって」
将志は子どもの頃、庭の草木の中でもよく話ができるものとそうでないものがあった。それはその植物に気に入られるかどうかなのだと、かつて庭師は将志にそう教えた。
「では、草木に選ばれることはある種の特別な力で、その力のある者だけが、草木に認められて、話をすることができるんでしょうか。聴こえないのは、その力がないからだと」
「それは……」
言い淀んだのは、庭師の言葉が将志の心の深いところに入り込んだせいであった。古い記憶と一緒に眠ったはずの、醜い心根を掠める。草木と話せるのは特別な力、そう思い上がっていた幼い日があったのは確かだ。
庭師は朝露に濡れた三つ葉に指を滑らせ、さらに言った。
「成長して、声が聴こえなくなるという人もあるんです。あっしの知る御仁にも、かつては樹とお話しになったが、年を取るごとに声を聴けなくなり、いつしか自分が樹と話していたことさえお忘れになってしまった方がおります。聴こえなくなることは、必ずしも悪しきことではないんですよ」
でも、と言いかけたが、将志はその先を続けることができなかった。
――おまえのように聴こえ続ける者もいるじゃないか。
どんな顔をして、言えばいいのか。将志には、とても言えない。聴こえることを擁護したい気持ちと、それを擁護する資格などないと背を向ける気持ちが混じる。
朝の空気に冷たくなった頬が、痛みもなくひりひりした。




