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沈む桜  作者: 由佐
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◆将志という名

 菊田医師が帰宅される際に、酒の席もお開きになった。

 客人二人のために馬車を呼んだが、菊田医師は近所だからと断った。叔父は菊田医師と話が弾むまま送っていった。将志は小柴議員を馬車のつく門の前まで送り出し、その後でやっと自室にさがった。寝間着に着替えて床に就いたときには、もうとっくに日付がかわっていた。

 叔父の帰りは将志よりも遅く、将志が自室に戻るまでに叔父の姿を見ることはなかった。母ももう休んでいたので、結局、家族とはろくに言葉を交わさずに今日が終わったのであった。

 正直なところ、将志にとっては母や叔父とゆっくり話す(ひま)がなかったのはかえってありがたかった。今一番顔を合わせたくない相手は、家族かもしれない。兄の手紙についてはまだ何も言うまいと思っていたからだ。そして、美枝子のことも、まだ。

 本当は、今回の帰省で母に婚約を報告するつもりでいた。美枝子に二度目の求婚をしたのも、帰郷の前に返事をもらおうとしたからだった。けれども結局、色よい返事はもらえなかった。それどころか、そのような状態のまま恋人を残して父の代わりを務めなければならない。華族の子息をまともにやっていくには、こうするより他にない。西宮の名に泥を塗ることは許されない。まったく、年を取るごとに父にも兄にも頭が上がらなくなっているような気がする。昔はもっとやんちゃで、度胸があった。怖いもの知らず、身の程知らずとも言うのだろうけれど。

 身分や立場に恥じないように生きたいと思っているのは本当だ。西宮家に生まれたことを、本気で疎ましいなどとは思っていない。でも、どうにも噛み合わない、どうしていいのかわからない。将志には、この家の男子の誰もが持っているような大義がない。兄に手紙の返事を書くのも、叔父と顔を合わせるのも、どこか後ろめたいのだ。

 とりわけ叔父が自分に期待を抱いていることを将志は知っていた。叔父の彦次郎は、将志の名付け親なのである。侯爵である将志の父は大阪や東京に出向いて留守にしていることが多く、この屋敷で過ごした少年時代、将志にとっては叔父がもう一人の父親のようなものだった。

 彦次郎と将志は共に、西宮家の嫡男たる兄をもって生まれた、弟の身。自分と同じように次男として生を受けた将志のことを、叔父は自身と重ねていたのだろう。将志という名に宿る叔父の思いは、単なる同情よりもあるいは深い。

 四年前、帝国大学への進学のため上京を間近に控えた将志に、叔父は与えた名の意味を語った。

「――将志。きみに『次』の字を付けなかったのは、きみに私と同じ思いをしてほしくなかったからだ。いや、同じ思いをするはずのない命だと思ったからだ。だからきみには、きみの父上と兄上と、同じ字をつけた」

 将志の父、西宮侯爵は、名を志之介(しのすけ)という。その『志』の字をとって、長男は貴志と名付けられた。さらにその字は叔父によって、次男の将志にも受け継がれたのである。そして、二番目を意味する『次』や『二』の字は、そこにはない。

 兄の名と、自分の名。貴志と、将志。並べたら、どちらが上か下か、わからぬ名前である。わかるのは、どちらも父の志之介から『志』の字を受け継いだ息子ということだけ。

 おそらく彦次郎は、次男として生まれた自分の境遇を憎んだことがあったのだろう。

 江戸の世において、武家の次男以下に生まれた者の人生は、一般に暗かった。「冷や飯食い」と蔑まれ、どこか良家の婿養子に入ることだけが望み。それがかなわなければ屋敷から出ることもできず、世話係の下女と子を儲けるような、荒んだ生涯が待っていた。大名である西宮家でも、長男はその地位を継ぐが、次男以下にその地位が巡ってくることは期待できなかった。

 けれども時代は変わり、長く人々を支配した身分制度は崩壊した。それどころか国全体が大きく揺らぎ、未知なる外の世界に向かってひらかれた。

 叔父の言葉は、こう続く。

「明治五年生まれ、きみは新しい世の中に生まれたんだ。次男だからって、軽蔑される(いわ)れはない。武士でなくとも、自分の生まれに誇りを持ち、その家柄や肩書を存分に利用することができる。そして、この国の大きな一部になることができる。学ぶことがたくさんあるだろう、新しくつくっていかなければならないものばかりの時代だから。いいか、きみに『次』の字を付けなかったのは、新しくなったこの国がきみを必要としている証だ――」

 彦次郎の配慮は、単に兄弟の平等を願ったものではなかった。兄と比べて劣らないというだけではない、将志自身の未来を見ていたのである。次男であることで冷遇されない代わりに、次男であることを理由に世間に背を向けてはならない。将志がこの世界の一部としてその使命を全うすることを、叔父は望んだ。

 この名に恥じないようにという思いは、確かにある。

 しかし今はなんだか無性に――疲れた。

 もうわからなくなる、自分のまわりで何が起ころうとしているのか、自分が何をすべきなのか。

 若い学生が海外に行く。この国は新しい産業と教育に大きく舵を取り、大陸の権益に手を伸ばす。

 我が国の趨勢(すうせい)は、亜細亜(アジア)随一の主権国への邁進だ。それはおそらく、西欧の協力敵対関係に踏み入って、この国を戦争の渦に巻き込むことをも意味している。清国との交戦がその大きな一歩になったことは間違いない。戦争の勝利や産業の活発化を受けて社会が高揚しているのは事実、しかし、常に拭えぬ不穏な気配の正体は一体何なのか。

 近代化の必要はわかる。西欧列強の後に続かなければ、この国は潰れてしまうだろう。外からもたらされる恐怖と圧迫感が、国の中枢を焚きつけた。

 けれど、新しい時代を歩みはじめたこの国の行く末など、誰にもわからない。前線に立つ父や、西欧の只中にいる兄にさえ。彼らに倣って進もうとする自分は、何か得体の知れぬ場所に足を踏み入れようとしているのではないか。

 変わっていく、何もかも。外から様々なものが押し寄せる。その荒波で、何かがさらわれていくのではないか。自分も、飲み込まれてしまうのではないか。漠然とした不安に、自分でも信じられぬほど心が乱れる。その正体など想像もつかない。ただ、何かが変わってしまう。それも、今この時代に生きる自分たちが変えてしまう、そんな気がしてならない。

 将志の脳裏に、美枝子の姿がよぎった。桜の前に静かに佇む、彼女の姿が。

 これを手放して、欧州に行けとでも言うのか。まだ見ぬ世界へ、ここから遠いところへ。樹の声を聴くこともなく、聴けたことすらも、忘れて。

 ――馬鹿な。僕は、忘れたくなかった。忘れてない。忘れたくない。


 その晩、夢を見た。おかしいほど紅い花が降る、音のない夢だった。

 夢の中の将志はそれを桜だと信じて疑わなかった。次第に視界を奪うように積もりゆく花弁に閉じ込められ、ただひたすらに耳を澄ましていたけれども、ついに風の囁きの一つも聴かれなかった。



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