◆桜語り
話題が移り変わってしばらくの後、彦次郎が一度、手洗いに席を立った。
三人になった座敷に、縁側から夜風に乗って桜の香が漂ってきた。思い出したように、縁側の方に目を向ける。
「先生、今年はもう花見はされましたかな」
小柴議員に尋ねられた菊田医師は「ええ、たった今」と笑って、自分の杯を見せた。透明な酒の表面に、舞い込んだ花弁が一つ浮かんでいる。
「これは、洒落たことをおっしゃる」
小柴議員は楽しげに、菊田医師が飲み干した杯にまた酒を満たして言った。
「大人数で昼間から宴会するのもいいが、こうしてゆっくり夜桜を肴に飲むのもまた一興」
「違いありません。西欧にはこのような花見の習慣はないと聞きますから、この国で春を迎えない若者が気の毒なくらいです」
暗に、独逸で医学を学ぶ息子のことを言っているのだろう。
そういえば、と将志は菊田医師に頷いた。兄の手紙にも、向こうには桜を愛でる習慣がないということが書かれていたのを思い出したのだ。
杯を傾けたような月が、薄雲にかすんでいる。月光に雲が透けて、空はいくらか明るく見える。桜の薄紅は夜の色によく映えた。見慣れていても美しいこの花のために、人は集まる。
「桜を愛でるのは、日本特有の文化のようですね。兄の手紙で知ったのですが。もちろん気候や風土の違いで桜に馴染みのない土地もありましょうが、少なくとも桜が咲く地域においては、桜は何か特別なもののように漠然と考えておりました。しかし、必ずしもそうではないようで」
そうですねえ、と菊田医師は記憶を探るように遠い目をする。
「向こうの人間も花は好きですが、なるほど、桜は我々日本人にとって特別な花なのかもしれません。他の国で育った人間以上に、美しいと感じる。あるいは、他国の人間が思うのとは違った美しさを知っていて、それを見ている」
桜との、特別な繋がり。将志にとってのそれは、例えば、この国の者にだけは桜が声をかけてくる、とか。
――いけない。
一瞬よぎった美枝子の顔とともに、どうにか頭の外へ追いやる。樹と語らう力のことは絶対に口にしてはならない。聴こえぬ者には信じられぬことと、重々承知している。知られれば、変わり者と思われ信用を損ねるだけだ。
将志は冷静に、代わりの言葉を引っ張り出す。
「例えば、桜に人の命を重ねるのは、我々日本人の独特な見方でしょうか」
「武士道かね」
小柴議員は、将志の言わんとするところを察したようだ。
「命を削るようにして咲き、潔く散る。そこには武士の魂を重ねて見ることができよう。潔く死ぬという近い将来の約束事が、人の生き様を気高いものにする。それと同じ、数日のうちに散るという結果が見えているから、満開の時は貴重で、最も美しいと感じるんでしょうな」
そこまで言って、小柴は杯をぐいと呷り、「ま、盛者必衰の縮図のようでもあるから、私に言わせりゃあ、どことなく不気味な見方ですがね」とおどけた。いやに含蓄のある皮肉のように聞こえた。
ちょうど、席を立っていた叔父が戻ってきたところであったが、菊田医師はそれに気づいていないかのように、庭の桜の方を見つめたまま、おもむろに口を開いた。
「命を削るように、とはよく言ったものです。刹那的な命の一瞬の煌めきを、あれに見る。すぐに散るからこそ、咲いている短い間はより貴い、というわけですか」
気に入らんようだね、と彦次郎は頬杖をついて菊田医師の方を見た。
「ええ。医者としては、長生きするのが一番、人の命が短いのをよしとするには抵抗がありまして。結局は儚いものなのかもしれませんが、それをごまかしごまかし引き延ばしてやるのが私の務めだと思っていますから」
医師の語調から冷笑じみた皮肉の色が薄まっていくのを、将志は確かに感じた。
「――思うに、桜が美しいのは、命を削るように咲くからではなく、枝を伸ばし花をつけた姿、それそのものが美しいからなのです。地中深く根を張って、何年も生きる。毎年毎年厳しい冬を越えて、春が来たらきちんと花を咲かせる。気候に恵まれない年、動乱や天災に見舞われた時代が、幾度も巡ってきたことでしょう。そのせいで年によって開花には差もあっただろうけど、それでも耐え、飽かずに咲く。終わりなど見えないままに、ただずっと繰り返す。それだけで美しく、むしろそれが美しいのだと思います」
生が美しいのは、その先に死という絶対的な終わりがあるからではない。生きることは、それ自体が美しく貴いのでなくてはならぬ。もしも死によってその価値が与えられるのならば、生きているうちには富も美も叡智も、何もいらないことになってしまいかねない。
少し酔った将志の頭に、心地よく菊田医師の言葉が沁み込んだ。命の存在それ自体の価値に触れようとする知恵人の、否、人間の姿を見た気がした。
将志の斜向かいに腰を下ろした彦次郎は、神妙な顔つきをして菊田医師の言葉に声もなく頷いている。
「なんとも、深甚たる見解ですな」
声に出して頷いたのは、小柴議員である。
「生そのものの美しさ……あの花、いや、あの樹そのものの美しさというわけか。私はどうも、桜は死の匂いというか、為政者の陰謀めいた後ろ暗さを拭えぬ質でして、先程の武士道がどうとかいう印象も、すべては年季の入った政治の道具のように思えてならんのです。このやり口を悪いと言いたいわけじゃあありませんが」
彼自身、地方議員とはいえ一人の政治家。狭い社会の後ろ暗さにも、一方その必要性や有用性にも、心当たりがあるのだろう。
「ですがね、菊田先生のような造詣も情緒もない、こんなひねくれた目で見ても、なかなかどうして、やはり桜は綺麗なもんです。自分の心にも、根っこのところじゃ皆と同じように桜を解する精神があるのかもしれないとは思いますが、どうも、それだけじゃあない気がするんですよ」
「ほう。それだけじゃないと申しますと」
「結局は、皆全然違うこと考えて、桜を見ているだけのような気がするんですなあ。武士道精神を見る者もあれば、故郷や家族を思い出して懐かしがる者もある。各々の違った特別の目が、桜を美しいと認めておるのではないかと。私には、美しさを一つに定めることはできませんや。日本の魂なんていうものがあるのかは知りません、ただ、桜は見る人がそれぞれに“美しい”と思って見る目や心を持っているから、美しいんじゃありませんか」
「そもそも見る者がなければ桜は美しいとされる由もない。桜を何に見立てるもどう愛でるも、人それぞれ、ということですか」
将志の問い返しに、小柴議員は満足げに口元を歪めた。
「何も、桜にだけ言えることではないがね。これはすべての個体を見るにつけ、言えることだ。何に特別な思いを抱くか、これもまた人それぞれだからな。特別なものというなら、あらゆるものがそうだ。けれど桜は、多くの者に、わざわざ“特別だ”と感じさせてくれる。見る者によって姿こそ変わるが、さまざまの人間に特別の感慨を抱かせる。その思いで桜を愛でる者の、心の美しさ。それが、私の思う桜の美しさだ」
人は、一人ひとり違った各々の心を、桜に見る。心とは例えば、生き様や思い出。桜は見る者の心から大切な美しい部分を掬い取って映し出す。
「桜が美しいのは、美しいと信じる心が、そう感じるため。見る者があってはじめて、桜は美しいと認められる。――なるほど、小柴殿らしい考えをなさいますね」
菊田医師は小柴議員の杯に酒を注ぎ足し、その燗をさらに彦次郎に向けた。
「さて、彦次郎殿はどうご覧か。あの桜」
内輪では叔父のことを彦次郎と飾りを付けずに呼ぶ菊田医師だが、いささか挑発するように遜って返答を促した。
「そうですね。私は、美しいと思うことと、特別の思いを抱いて愛でることとは、何か別物のような気が致します」
叔父がどのような見解を述べるのか、将志もじっくり耳を傾けて、言葉を拾う。
「何を美しいと思うかは、小柴先生がおっしゃったように結局は人それぞれなのかもしれません。けれども何故か我々は、ほとんどすべての者が揃って桜を愛でる。他の花や樹とは何かが違うと感じている。ここに、何か皆に共通する思念のようなものがあるのではないかと考えずにはおれない。――桜は一部なのだと思う、我々の生きてきた風土や、何百年と続く営みの。もうずっと、我々は個人として生まれる前から、先祖を通じて桜と寄り添って生きてきた。親しみ深く、懐かしく、大事に思っている。意識して説明することもできぬほど深いところで。いつからとか、どうしてとか、もうとっくにわからなくなっているのでしょう。こうした習慣や感性の共有にこそ、何か意味があるのではないかと思うのです。桜に明確に何かを見ているわけではなくとも、ただ漠然と、今日まで続く営みに深く関わる桜のことが懐かしい。桜が我々と永く共にあったということを、いつの間にか理解しているのかもしれません。だから咲けば単純に嬉しいし、見たいと思う」
「ただの成り行き、そういうものだから、ってことかい」
菊田医師の揶揄を受けて、彦次郎は「身も蓋もないな」と苦笑する。突然、空気がふっと軽くなる。そう、これまでの語り草はすべて余興なのだ。
「ま、どれが正しいということもあるまい」
すでに興味も失せたという風情で、小柴議員は手つかずだった皿の一つを引き寄せ、中の漬物を箸で突いている。
確かに感じたはずの価値観や信条が、ただの戯れとなって霞んでいく。重要なことなど何一つなかったという顔で、杯が交わされる。
酒の入った将志の頭に、数々の言葉が風に煽られる花弁のように、不安定なまま宙に浮かんでいた。それらは麻痺した心に鋭く刺さり、何かを抉り出そうとしているかに思われた。
「なんだ、将志。難しい顔をして」
叔父の言葉に、将志は咄嗟に笑みをつくる。口の端を引くくらいなら簡単だ。
「いえ、何も」
きっとこのまま今にも消えてしまうだろう。掴み取れぬ言葉が将志を置いて遠ざかる。誰かが正しいことを言ったのか。否、小柴議員の言う通り、どれが正しいということもない。
しかしそれ以上に、将志には何もなかった。たとえ余興でも、話を向けられなくてよかった。出まかせにも、彼らのような考えは将志の頭からは捻りだせそうにもなかった。溢れかえる思想の海でかすかに、忘れたくない、という思いが桜の陰に閃いた気がしたが、それもまた一瞬にして雲散霧消してしまった。酒の匂いと花の色、あとは空ろだった。
酒が回ってきたのかもしれない。将志は考えるのをよして、叔父たちの軽妙な冗談の応酬に肩を揺らして笑った。




