◆酒杯
汽車を降りると、本邸から寄越された馬車が待っていた。
その馬車に揺られて、将志は生まれ育った屋敷に到着した。出発は朝だったが、もうすっかり夕暮れ時である。
本邸は、門と外塀を構えた古風な和風建築で、侯爵の家族の住まう母屋が最も広く、そこを中心にいくつもの離れが通路で結ばれている。
この広い本邸にはたくさんの人が住まい、また、出入りする。父と二人の倅が東京に移った今となっては、将志の母や叔父夫婦がこの屋敷を守り、使用人や地元の議員や書生たちの面倒をみている状況である。
将志を迎えに出てきた使用人は、荷物と上着を受け取ると、将志を座敷に促した。
どうやら今日は来客があるらしい。給仕の慌ただしい様子を見るに間違いなかろう。議員か商人か、いずれにせよ将志は叔父の彦次郎がもてなすその席に加わらなければならない。廊下を進む最中、将志は耳の上の頭髪を撫でつけ、襟元を整えた。
「お楽しみのところ失礼致します。西宮将志が戻りました」
音を立てぬよう襖を開ける。
客人は二人。どちらも叔父とは馴染みで、将志にも関わりのある紳士であった。
一人は恰幅のよい初老の紳士で、地方議会に議席をもつ議員。名を小柴という。議会で身につける窮屈な洋服でなく、紺の袷に袴をつけた、普段着と変わらぬ姿だった。
もう一人は、この屋敷の近くに診療所を構える菊田医師。彼は叔父にとって学生時代からの友人であるとともに、菊田家は徳川時代より代々藩医を出した家系で、その流れを汲んで今でも西宮家の担当医を継ぐ家柄なのである。やや痩せぎすだが大柄な体躯に、着慣れた羽織姿。開け放った縁側に最も近い席で杯を傾けている。
「おお、将志、戻ったか。こちらに来い。すぐに膳を用意させる」
「いえ、使用人にはすでに申し付けてありますので直に」
言葉通り、まもなく、洒落た装飾の目立つ木具膳が運ばれてきた。あとの三人の手前のものと同じである。特別気を遣った膳ではないが、平時の客をもてなすのには十分なものだった。
今晩の酒の席は互いに気心の知れた者同士。そんなに構えるほどのことではなかったなと将志は僅かに気を和らげた。
「やあやあ、久しぶりだな」
気安い挨拶ついでに小柴から徳利を傾けられた将志は、丁重にそれを杯で受けた。ふわりと酒の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。この議員は相も変わらず強い酒を、とすでに赤くなっている丸顔を盗み見て、将志は忍び笑いを隠すように杯を呷った。
縁側の向こうの庭先には、桜の樹があった。こちらは東京よりも少しばかり早く春が訪れるためか、桜はもうまもなく満開を迎える頃合いだ。そう強くもない風が吹くたびに、花弁がちらちらと夜闇の中を舞った。
菊田医師は、「元気そうで安心しました」と将志の長旅を労ってくれた。鉄道の開通により移動はずいぶんと便利になったとはいえ、さすがに東京からとなるとかなりの距離がある。
「いえいえ、こんなの、欧羅巴までの一月の船旅に比べれば、どうということはありませんよ」
将志のふざけた返しに、和やかな朗笑があがった。
「そういえば、菊田先生のご子息は独逸に留学されているそうですね」
「ああ、彦次郎の厚意のおかげさまで」
菊田医師の息子の留学費用は、どうやら西宮家の方から援助を申し出たらしい。
「なに、いずれお前が引退した暁には担当医を継ぐんだ。投資を惜しむことはあるまいよ」
「おや、これは大きく期待されておりますなあ」
と、小柴議員が「先生よりご子息の方が優秀なのでは」とけしかける。対する菊田医師は「どうでしょうねえ」と穏やかに受け流している。
「留学と言えば彦次郎殿、貴志殿は、確か仏蘭西でしたかな」
「はい。教育制度を勉強すると申しておりまして」
「向こうでのご様子はどうです」
「それなりに忙しくやっているようで安心しております。いやなに、母君に似て几帳面な性格でしてね、東京にいるはずの侯爵よりもまめに手紙が届くんですよ。ごく簡単な挨拶と連絡ですが、定期的に寄越してきます」
「結構なことじゃありませんか」
まったくだな、と東京で兄の手紙を受け取ったばかりの将志は胸中で頷いた。将志には頼んだとか何とか言いながら、自分でしっかり実家ともつながっている。実に熱心で用心深い、結構なことではないか。
彼らはしばし、若者の西欧留学についてあれこれと噂話や議論に興じた。
将志はその邪魔をせぬ程度に相槌を打ち、求められれば控えめに意見した。あとは両客人と叔父に、話が途切れぬよう酌をする。使用人に空いた燗を下げさせたり、新しく酒や肴を持ってくるように言いつけたりと、さりげなく気を遣った。
西欧のことをとりとめもなく話すうち、小柴議員がふと乾いた声で呟いた。
「それにしても、独逸に仏蘭西に……留学はよろしいが、どうも最近はそのあたりの動向がきな臭いですなあ」
今日の我が国を取り巻く外交情勢で避けては通れぬのが、西欧列強の水面下での動きだ。国際社会という慣れぬ戦場に、日本の指導者たちは当初から手を焼いている。
近代化が軌道に乗りはじめ、日本が清国との交戦に勝利をおさめたのはつい昨年のことだ。しかしその直後、講和条約で得た権益の一部を、露西亜をはじめとする列強三国の圧力を受けて手放したことは記憶に新しい。放棄した遼東半島は、我が国の外交戦略上、大変重要な位置にあっただけに、この結果には不満が広がっている。
国内のあらゆる制度や産業を近代化に推し進める一方、西欧列強と対等に渡り合う極東国としての外交上の地位を築くことは、今、この国の最重要課題である。国の行く先を決めるのに、西欧列強の存在はあまりにも大きかった。特に、清国の利権に注目が集まる近頃は、露西亜が巨大な不安分子となりつつある。
「露西亜といえば北の大国。遼東半島権益のために即刻開戦に踏み切らなかったのは正解と思いますね。少なくとも、大国の後ろ盾を得るまでは、戦えたものではない」
彦次郎が慎重に意見したが、新しい酒が入ったのを機に、話題はすぐに流れた。他愛のない談笑の一部にすぎないのだが、先程の「きな臭い」という小柴議員の言葉に、将志は一瞬、酔いが醒めるような心地がした。




