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沈む桜  作者: 由佐
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◆車窓に映るもの

 明朝、将志は一人で身支度を整え、鉄道の駅に馬車を走らせた。

 さっぱりとした洋装に身を固め、若者らしい洒落たタイを結び、いかにも青年貴族といったいでたちである。侯爵家の人間たる者、着飾らない程度には身なりに気を遣う。播磨でも、自身の生家とはいえ議員や商社の紳士たちの相手をするのだから、礼も威厳も失することがあってはならない。大学も卒業した今、若造となめられることはあっても、都合よく子ども扱いして甘やかされるようなことはないのである。衣類や装飾品一つで火種を作るようなことはすまいと将志は思っている。

 今朝一番で東海道を下る鉄道の貴賓車両は()いていた。四人掛けの一区画のうち、窓際の一つに腰を下ろし、読みさしの文学雑誌を広げる。そこには、昨日の兄の手紙が挟んである。しかしそれをすぐに広げるのはよして、列車が出発する前の慌ただしいプラットホームを何とはなしに見物していた。

 まだまだ気温の低い四月はじめの朝霧に、列車の息巻くような蒸気が溶け合って、窓の向こうが(かす)む。やがて列車が震えながら動き出すと、駅舎はあっという間に過ぎ去り、遠ざかった。

 日が高まるとともに霧は衰え、木造の家屋や水田の背景に、深緑の山々の連なりが現れてくる。まこと、列車の小さな窓を眺める心は忙しない。硝子(ガラス)に映った嘘みたいな景色が目まぐるしく流れゆくのを見ると、何か見落としてはならないものがあるような気がして、目と胸のあたりが緊張する。気を張る必要などないとわかっているのに、不可思議な心地である。

 景色が田や山ばかりに落ち着いてきた頃合いになって、将志はようやく雑誌に挟んであった手紙を手に取った。

 将志は黙々と読んだ。手紙から伝わってくる、兄の見た世界を理解しようと、形ばかりは努めてみる。煉瓦の街並みや学問の知識、白い肌をした長身の人々。今の兄を取り巻く物事を、自分も受け入れようとしてみるのだ。けれども、それはいつもうまくいかない。将志はただ他人事のように物珍しがっているだけで、これではまるで無知の阿呆だ。本当なら自分も直に見知っておくべき世界であろうに、近くに感じたことは一度もない。

 実のところ、将志が西欧へ旅立つ機会はこれまでにもあった。この度の手紙よりも前に一度、兄は自らが学友たちと旅立つ際に将志も一緒にと誘ってくれていたのである。おまえも世界を知らなければ、と兄は熱弁をふるった。

 兄の説得は熱心で、言い分にも一理あった。華族の若者は欧州への遊学が奨励されていたし、それがどれほど恵まれた機会であるかは将志にも十分わかっていた。断る理由などなく、むしろすすんで行くべきだったのだろう。しかし、将志は「行く」とも「行かない」とも言わず、結局、最後まで返事を濁した。煮え切らぬ将志に痺れを切らしたのだろう、兄はそのまま当初の予定どおり、同志たちと一緒に横浜から出航した。

 出立前に、「ここを頼んだぞ」と兄は将志に言い置いた。おそらく西宮家のことを言いたかったのであろうと思う。自分が長男として家族に対して担うべき役目をおまえが代わりにやってくれ、ということだ。兄は真面目で責任感も強いが、将志に言わせれば兄はいささか身勝手なところがある。正しいことや必要なことは、誰にでもやらせなければならぬと思っているような節があり、正しいことなのだから頼めばその他人がやってくれるのが当然だという期待を抱いているように見える。どうにも、自分にたいそう自信のある人間の理屈に思えてならない。しかしそれは身分の高い若者の持って生まれた性質であろうし、将志にも多少はその(さが)が受け継がれているであろうから、指摘することは(はばか)られるのだが。

 それに兄は真実、自信を持つことに文句はつけられぬ優秀な人柄である。侯爵家の長男として、彼は侯爵家と国のための使命を背負って生まれた。兄はよき侯爵であり政治家である父の背中を追い求めて育ったのだ。父の教えを真正面から受け止め、やがて自らの志と成した。兄は愚直なまでに使命感に燃えていて、あらゆることに真剣であった。当然のごとく学業でも優秀であった。手抜きを知らぬ堅物ではあるのだが、手を抜かずともすべてこなしてしまう許容量の大きさは、彼の先天的な賢さの表れであろう。加えて勤勉とくれば、彼が目覚ましい結果を残してきたのは道理である。兄は侯爵家の重圧というものを意識しつつも決してそれに潰されず、誰もが期待するとおりに結果を残してきた。自らの志と周囲の期待を重ねあわせ、自分も周囲も納得させてきたのだから、いかにも兄は立派だ。この度の仏蘭西(フランス)行きも、有望な若者と認められてのことである。ついて来いと言われて気が引けるのも仕方あるまい。

 思うに、将志の兄との決定的な違いは、新しいものに対する受け止め方ではなかろうか。いっそ、家督だの遊学だのは関係ないのだとも思う。共に同じ屋敷で育ち、同じ学校で学を修めていた頃から、兄は将志と異なる受容体を持っていたのだ。将志にはない目で、周囲を見ていた。

 初等学校の頃、将志は兄と一緒に鉄道を見に行ったことがある。将志が物心ついたとき、鉄道は都会の人たちにはいくらか馴染みつつあった。

 神戸の駅で、空にたなびく灰黒の煙と、動物が鳴くがごとき汽笛の音。そして目にした、黒い龍のような厳めしい怪物。その姿はまだ幼かった将志を戦慄させた。黒い怪物の通り道は、日の光を浴びて怪物と同じ色に光っていた。枕木の等間隔に並ぶ整然とした様が、不気味で怖かった。以来将志にとって、汽笛の音は見知らぬ世界がやって来る音だ。わあ、と汽笛に呼応するように歓声を上げてはしゃぐ人々は、まるで見知らぬ人種に見えた。

 そのとき周囲と一緒になって歓声を上げた兄の気持ちが、将志にはわからなかった。兄は、将志がびくつきながら対面した見知らぬ世界に憧れを募らせ、その世界を求めた。鉄道やガス燈がわき起こす高揚感の正体は、漠然とした不安の向こうに横たわっている。将志には、そちら側には行けない。だから兄と同じ気持ちにはなれないし、父のように生きてもゆかれない。飛び越えることのできぬ、また飛び越えたいとも思えぬ溝を、幼心にはっきりと悟った。

 そのことをもっと不安がれる繊細さを持ち合わせていればよかったのかもしれないが、将志はどうも華族らしい豪気と楽天的性質の方だけはしっかりと受け継いでしまったようで、躍起になって兄に並ぼうという意欲に欠けていた。

 これといった理想も目標もないまま帝国大学を卒業し、今春からは大学の斡旋で公館の職員に就き、官吏の真似ごとをしている。その傍ら父の手伝いでこうして本邸との連絡役を務めたり、社交界の催しや慈善活動に携わったりしているけれども、何もかも父や兄の代わりでしかない。こうして他人の代わりをこなすことくらいはできるが、だからといってその他人と同じものを見ることはできないのだ。同じように生きていくことは、難しい。

 ――将志、おまえもこちらに来ないか。

 ずっと、そう誘われて生きてきたような気がする。それに答える言葉を、将志はしかし、まだ持たない。

 黒い怪物は、白い息を吐き出しながら、将志を生まれ育った故郷へと運ぶ。



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