◆出逢った日のこと
須藤美枝子とはじめて会った時、彼女はあの桜の樹と話していた。
明治二十五年の春、将志が帝国大学に入学して間もない頃のことである。将志は大学を出て屋敷に戻る道すがら、これといったわけもなく、須藤伯爵家の桜並木を通り抜けることにした。遠目に見えた桜の美しさに呼ばれたのだろうと今は思う。桜が満開でいる期間は実に短いが、その日は文句なしに桜の一番美しい頃合いだった。
須藤邸の桜並木を歩く者は、ほとんどが仕立ての良い洋服に身を包み、ステッキを提げている。伯爵家と親交のある爵位もちの連中、あるいはその縁者であろう。
小道を行く者どもの中でも、将志のような帝国大学の学生の姿は、すぐに見分けがつく。金釦をあしらった詰襟の学生服に、軍隊を思わせる制帽。制服を一式そろえ、毎日制服で通う学生は少なかったが、それでも一様に被った制帽は帝国大学に通う若き華族たちの象徴であった。
須藤邸の桜並木にはじめて圧倒されたのもその時である。将志が中等学校時代まで暮らしていた、播磨にある西宮の本邸にも桜はあったけれど、桜の回廊のようなこの小道は格別だった。桜が放つ、かすかに甘い、湿った匂いが充満していた。まだ鳴くのが下手くそな鶯の声を聞いたのを、覚えている。
桜の樹の下に、美枝子はいた。
将志は連なった樹の間から、その姿をとらえた。誰もが見落とす、小道のはずれ。けれどもその姿は、並木を行く他の誰よりも、将志の目を引いた。
彼女は地面に浮き出た根の間に立ち、その幹に手のひらを押しつける格好で佇んでいた。癖のない黒髪をリボンで高く結った、海老茶色の袴姿と、整っているけれどもまだ幼さの残る容貌から、彼女がこのあたりの華族の娘で高等女学校の学生であろうことは容易に想像がついた。
枝に頬を引っ掻かれたことにも気づかず、将志は樹の間を通り抜けて小道をはずれた。ぽっかり空いたその空間に足を踏み入れると、どっしりと構える桜が、並木越しに見るよりもずっと大きく見えた。背後の並木が向こう側の世界を閉じてしまったかと思うほど静かだった。ただ一本の桜と一人の少女の存在だけが強烈に目に焼きついて、将志の心を鷲掴みにした。
歩み寄る将志の革靴が、地面に落ちた細枝を踏んづけた音で、彼女は振り返った。突然の来訪者に肩をこわばらせ、目を見開いていた。
将志は、侵してはならぬ聖域に足を踏み入れてしまった異邦人の気持ちになったが、彼女を怯えさせまいとすぐに制帽を脱いで会釈をした。
「申し訳ない、驚かせるつもりはなかったのです」
折り目正しく挨拶をしてから、将志は目の前の桜のことを褒めた。
「こんな場所があるなんて知りませんでした。並木の隙間からちょうど見えたんです。この桜だけ、いくらか古いようですね、背も高い」
「ええ、この桜だけは他よりも古いのですって。あちらの並木は、この桜と同じ種類を後から植えて造られたそうですわ」
彼女はすぐに打ち解けて、将志と他愛のない言葉を交わした。どうやらはじめは本当にただ驚いただけだったらしい。
「なんだか不思議ですね、一つだけ離れたところに。あまり人も寄らないようだし。とてもきれいな桜なのに」
「この桜は、墓標らしいのです」
「――墓標、ですか」
将志は彼女の方を見て聞き返したが、彼女はうつむいていたため視線はすれ違った。
「たぶん、徳川の時代にこの屋敷で亡くなったお侍さんのものと思うのですけれど」
さしずめ須藤家の家臣というところか。ここも旧大名の屋敷、後ろ暗い事件があったことは容易に頷ける。
桜が死とつながることは、珍しくない。かの有名な吉野山の桜も、戦で死んだ者を慰める墓標だというくらいだ。桜は、その美しさが際立つほどに、死の匂いも強くなる。死者の眠る地の桜は、樹の成長がはやいとも言われる。
「気味が悪くはないのですか」
「この桜が?」
「ええ、まあ」
「気味が悪いなんてことはないですわ。誰だって、花見をする時にいちいち死を連想したりしないでしょう? 桜は美しいだけで、何も悪くありませんもの」
彼女は将志の目を見て微笑んだ。頭の右のあたりに花弁がくっついていることにも気づかぬあどけなさに、将志も自然と口元を緩ませた。
その時、将志の心にどんな変化が訪れたのか、将志自身よく覚えていないし、わからない。なぜ唐突に、訊ねてみようとしたのか。本気だったのか、それとも彼女をからかうつもりだったのか、それすらも曖昧であった。
「――お嬢さん」
あなたは、桜の声が聴けるのですか。
と、将志は問うた。脳裏には、並木の向こうから見た、樹の幹に手を押し当てる彼女の姿があった。
二人の間を、幾多の花弁が舞い落ちた。そのいくらもが地面に到達する間もなく、彼女はほとんど即座に、
「そうですわ」
と答えた。
桜は悪くないと言ったのと同じ調子の、あっけからんとした返答で、これには将志の方が面食らった。
「冗談だとお思いでしょうね」
咄嗟に声を出しそびれた将志に向かって、彼女は重ねてそんなことを言った。
彼女の目は、気の利いた冗談をくりだす利発さと茶目っ気にきらりと光っていた。とても愛嬌があり、そしてそれ以上に、妙に大人びた風情があった。知性に輝くその目は、彼女に対する将志の親近感と興味を、強く掻き立てた。
「いえいえ、冗談とは思えませんよ」
将志は自然といつもの笑みと軽口を取り戻し、そして思った。言ってもかまわないだろう、と。冗談でも本気でもなく、ただ自然の水流がごとく素直に、そう思ったのである。
「僕だって幼い頃は、草木と話ができたものです」
「まあ、本当に?」
「ええ。でも僕の家の庭にあった花だけは、庭師に甘やかされたせいか気難しくて、僕に語りかけてくれることはありませんでした。花はどうにも気位が高くて困ります」
彼女は口元にそっと手を当て、笑声を漏らした。
「おもしろい方ですわね」
「それは僕のことですか、それとも庭師の?」
将志のとぼけた冗談に彼女はいっそう深く笑い、つられて将志も相好を崩した。彼女は「そんなの、もちろんあなたのことよ」と抜け目なかった。
「もう、あなたってとっても冗談がお上手ですのね。私の負けだわ」
その日の別れ際になってやっと互いの名前を名乗り、彼女がこの庭の所有者である須藤伯爵の一人娘であることを知った。当時、彼女は郊外にある高等女学校の第四学年で、来たる夏に十六になるところだった。
以来、その並木道を通るようになった将志は、たびたび彼女と顔を合わせるようになる。ここに来て話すことは、他の誰と話すこととも違ったけれど、中身を検めればなんてことはない、冗談たっぷりのとりとめもない話ばかりである。交際に至ってからは、休みに劇場に芝居を見に出かけたり、美術学校の開催する展覧会を訪れたりした。
はじめて美枝子に会ったあの日、自分がなぜ彼女に声をかけ、あのような話をしたのか、将志はずっと不思議に思ってきた。彼女があの桜と話をしていることを直感したためかもしれないが、彼女に話しかけ、なおかつ自分も「話せた」ことを明かすまでに至った説明には足りない。美枝子と同様に、将志も冗談を言って周囲をからかったり煙に巻いたりすることは好きな性分であるが、将志は「樹と話す」ことについてはそれまでひた隠しにしてきたのである。それなのに、美枝子には言ってしまった。
たとえ冗談でも、この秘密を他人に明かすなど、将志には到底あり得ぬはずだったのに。




