◆桜が呼ぶ
将志は、美枝子と二人、伯爵邸の桜並木を歩いた。彼女を須藤屋敷の前まで送り届けるためである。
須藤邸の屋敷は、このあたりでも華族が住まう個人屋敷としてはまだまだ珍しい、二階建ての洋風建築である。美枝子の父上である須藤伯爵が、西洋より招いた建築技師にその設計を依頼されたという。その壮麗な洋館は、今も一部残されているかつての須藤屋敷と、渡り廊下で結ばれている。離れの日本家屋には、主に使用人や須藤家が勉学を支援している書生の居住空間として利用されているようだ。離れの他、粛然と並んだ旧来の蔵もそのままの形で残されている。
この立派な屋敷の主である須藤伯爵は、現役の軍人で、海軍の佐官を務められている。先の清国との戦いに際しては、防護巡洋艦の副官として海戦に臨まれた。そんな伯爵の庭づくりへの興味は、海軍大学校時代、西洋に留学されて以来のものらしい。その趣味が高じて、今では立派な桜並木も含めた自慢の庭園を、普段から隣人たちにも開放しておられるというわけだ。庭園奥の、屋敷のまわりの生垣に囲まれた一角を除いては、伯爵に断わりなく散策することができる。西洋から持ち帰った植物と古くからこの地にある樹木とが見事に調和した庭は、どの季節でも豊かな表情を見せると評判で、ちょうどこの季節は、庭園の外縁に連なる桜が最も美しい。
屋敷と庭園を隔てる垣根まで辿り着いた将志は、別れ際、どういう言い方をしてもみっともないことは承知の上で、「また来る」と美枝子に告げた。
「美枝子さん、一度目のあなたの言葉を無視する形で、今日再びあなたの前に現れた無礼をお許しください。……僕があなたにもう一度思いを告げなければと思ったのは、あなたの本心を知りたかったからです。僕を一人の人間として信頼しているのならば、あなたの正直な心をお聞かせください。あなたが心底僕との結婚を望まないとおっしゃるなら、僕はもう二度とあなたに結婚を申し込んだりしません。よき友人になると約束します」
取り乱すこともなく、改まった口調で真摯に述べた将志の言葉を、美枝子がどう受け取ったのかはわからない。またしても美枝子は「ごめんなさい」と言って困った顔をしていたが、その目の奥に安堵のようなものが見え隠れしていると感じたのは、単に将志の未練のせいだろうか。
美枝子が真鍮の取っ手がついた重厚な玄関扉の向こうに消えてから、将志はすれ違う須藤家の使用人たちの目礼に応えつつ、生垣を越えて桜並木を戻り歩いた。
将志は美枝子の態度に今でも戸惑っていたが、一度目に拒絶された時に比べれば平然としたものだった。
だからこそ、気づくべきことに気がついたのである。
はじめに将志の注意を引いたのは風だ。庭園を彩るさまざまの植物が、その枝や葉を揺らした。彼らの起こす細波が、将志の頭の中で何度も繰り返される美枝子の声を掻き乱した。
固められた土の上を、左右交互に踏む己の革靴のあたりを見、とぼとぼと歩いていた将志は、思い返すのにも飽いて、山高帽を乗せた重たい頭をあげた。
目に映る景色は、見なくてもわかるほど見慣れている。学生の時分から何度も通った、須藤伯自慢の桜並木である。小道に沿って並ぶ桜はどれも同じくらいの高さで整えられており、その並木越しにはあの背の高い桜の樹がひょっこり顔を出している――はずなのだが。
将志は己の目を疑った。別段視界にかかっているわけでもないのに、山高帽の鍔を指ではね上げて目を凝らす。あの樹には、並木に見とれて気づかぬ者も多いが、その場所を知っている将志に見えぬはずはなかった。並木のどのあたりに見えるはずか、それだってわかる。
なのに、見えない。整然とした桜並木の向こうには、桜なんて。
嘘だ。
ここに並ぶ桜が成長して大きくなることは考えられる。しかし、前に見た時に見えたあの大樹が見えなくなるほど急に樹が伸びるものか。前に見た時、という何気ない基準になぜかまごつく。前にこうして並木越しに飛び出たあの樹の天辺を見たのは、いつだったか。
冬の間、桜は葉を落として枝木になるから、人はその姿をあえて見上げることをしなくなる。背を丸めて、視線を上げず足早に通り過ぎてしまうのだ。並木の奥にある大樹も、枝だけになっては目立たない。あまりにも見慣れている並木道を、顔を上げて目に留めながら歩くのは、極端に言えばこの季節だけである。とはいえ、将志はこの頃も変わらずにこの道をよく通るではないか。数日前、数日前はどうだった。思い出そうにも、わけもなく気が急いでうまく思い出せない。この道をよく通ることは確かなのだが、だからこそ周囲の景色に対しての注意は散漫になる。現に、このあたりでは有名な須藤邸の桜の異変だというのに噂になっていないということは、将志を含めた他の者たちも気づいていないということだ。
それでもなんとか歩き方くらいは思い出して、あの桜の元に向かった。なぜだかはわからない、ただ、あの桜の大樹に、会わねばならぬと思った。
いくらか小道を進んで、ある樹と樹の隙間を通り抜ける。小道からはずれると、そこには先ほどまで美枝子と二人でいた、桜のために誂えたような空間がぽっかりと現れる。美枝子と出会い、結婚を申し込んだ場所。美枝子が将志を認め、そして拒んだ場所。
その時、正面から吹きつけたあまりの強風に、将志は山高帽を押さえて立ち止まった。まるでこの樹から風が生じているみたいに、桜の花弁が風に乗って将志のところまで流れ着く。
「もうこんなに散ったのか……」
ここに来るまでの桜は、こんなに花を散らせてはいなかった。薄い色の桜花は、まだ咲きはじめたばかりだ。数日後に満開を迎えたら、桜並木は一気に華やぐことだろう。それに比してこの桜、咲くのが早くはないか。
止まない風の中にいるうち、いつしか将志の足元は桜の花弁で斑模様に染まっていた。ちょうど風が将志の体で遮られるためか、将志の周囲ばかりが花の色をしている。その鮮やかな濃紅色が、不気味なほど美しい。
将志は服についた花弁を払うこともせず、吸い寄せられるようにして桜の木に歩み寄った。桜の檻に、足を踏み入れる。
胸を押し潰されるような、圧迫感。
将志は、樹の異変を確信した。並木の向こうから見えなくなった、その理由が、今わかった。
背の高い大樹であるはずの桜が、将志の肩ほどの高さより上はもう枝分かれしてしまって、幹とは呼べない姿をしている。見れば、将志の膝くらいの高さから伸びている枝すらある。本来は幹であるはずの部分が縮んでしまったような、この奇妙な形はどうしたことか。しかも樹の中心である幹に手が届くところまで来ても、地面は不自然なほど平坦で、張り出た根がない。この樹は、人が座れるほどのどっしりとした根が浮き出ていたはずだ。地表を蔦っていたはずの根が、今や一つも見えなかった。
さらに将志は、袖口についた花弁を指で摘み上げて顔の前でまじまじと見入った。須藤邸の桜は、こんな毒々しい紅色などではない。もっと薄い紅色だ。この桜は小道沿いに並んだ桜と同じ種のはずなのに、この花弁は奇妙なほどに違う、濃紅色。去年までは、確かに薄紅色だった。――なぜ自分は、思い至らなかったのか。
彼は美枝子がいつもしていたように、桜の幹にそっと掌を当てた。それはずっと昔、彼自身もしていたことだった。
記憶の中にある、今よりも小さな己の手が、骨ばった大人の男の手に重なる。幼い記憶が何か力を分け与えてくれるのではないかと、冷めた心の一点に淡い期待が灯る。いや、これは期待なんて打算的なものではない。祈りにも似た、弱くて神聖な気持ちだ。
樹が縮んだなんて、馬鹿げた話はない。けれども今この樹は、それと同じくらい馬鹿げたことに見舞われているらしい。縮んだというのは、おそらく少し違う。
「――沈んだのか」
独り言だったが、半分は心のどこかで樹に話しかけていた。もちろん、言葉は通じないだろうと承知の上で。
言葉など通じなくても、この桜が、少なくとも去年までの桜とは違うということぐらいは将志にもわかる。並木の向こうから姿が見えなかったのも、樹のそばに立ったときに感じる枝の窮屈さも、消えた木の根も濃さを増した花の色も、すべては樹の異変。こうして桜に囲まれた時の、押し潰されそうな切迫。この正体は、正しくこの桜そのものにある。間違いない。この桜は、地中に沈んでいるのだ。
先ほどここで美枝子に求婚を断られた時、将志は確かに桜のことを言おうとした。しかし言葉にはならなかった。どうしてもっとはっきりと気づくことができなかったのかと、将志は己が腹立たしかった。
しかし、気づけなかったのも無理はない。この庭園には桜の他にも膨大な種の樹や草花がある。その数や配置が変わったとて、多少のことでは気づくまい。桜一つの変化に気づかないのも同様である。そもそも植物の類は絶えず生きたり枯れたりする。周期もばらばらなその継続的な営みは、愚鈍な人間にはとても感じ取れないほど多彩で繊細だ。よほど人工的に手を加えたか、あるいは長らく放置したかでなければ、自然の様変わりなど人の意識にはのぼらない。――自分もまさにその一部だが、並の人間の鈍感さには嫌になる。
美枝子は、気づいていないのだろうか。将志よりも長くこの樹と関わってきた美枝子だ。それに美枝子はまだこの樹と話すことができるのだから、樹が美枝子に異変を訴えることはむしろ自然だ。美枝子がこの樹の変化に気づかぬはずがない。だとしたら、どうして美枝子は、そのことを将志に言わないのだろう。
再び、強い風が吹いた。
耳元をかすめる風の唸りにまぎれて、将志に何らかの意味を悟らせようとする音の連なりが生じた。
――……スケテ。
助けて、と風が鳴いたように聞こえた。
しかし咄嗟に否と直感する。違う、これは風ではない。桜だ。桜が泣いている。
「おまえなのか」
語りかけ、そして樹の表面を指に食い込ませるように、幹に触れたままだった指先に力を込める。熱を伝えるように、皮膚と木皮が溶け合うように。
桜は、将志の問いには答えなかった。代わりにもう一度、同じ音の連なりが聴こえた。今度はよりはっきりと聴き取れた。――助ケテ、と。
「おい、どうしたんだ。答えろ、桜」
やはり将志の声は届いていないようだ。そんなことはわかっていた。――自分はもう何年も前に、樹と語り合う力を失くしてしまったから。
それでも、目を閉じれば、鼓動を感じる。桜は呼吸をしている。己の血脈とは別の鼓動が伝わってくる。
草や花は脆く、心を通じ合わせるためであってもあまり触れられることを好まない。一方で樹木はその趣を異にする。
地中に深く根を張り、表面を硬い皮膚で覆い、一人で立ち続ける孤独な巨人。自分以外の命がその乾いた肌に触れるのを待っているのだ。触れたところから、より強く訴えてくる。こちらの言葉も流れ込む。
桜。僕が力になる、だからおまえの声を聴かせてくれ。
「美枝子さんは知っているんだろう、おまえが苦しんでいること。おまえは、美枝子さんの大事な桜じゃないか」
――ミエコ……ォ。
その瞬間、またしても突風が桜と将志の周囲を舞い、濃紅の花弁と一緒に将志の山高帽を吹き飛ばした。
風が止んだ後、桜のものと思われた声はもう何も聴こえなかった。




