◆二度目の求婚
「――ごめんなさい、将志さん。私、お受けできませんわ」
西宮将志は、恋人の須藤美枝子に二度目の求婚をして、拒まれた。
「先日申し上げたとおりです。私に、将志さんに嫁ぐ資格はございません」
一度目と同じように、美枝子は丁重に頭を下げた。頭の後ろでゆるく結った艶やかな黒髪が、風にもてあそばれて前に落ち、美枝子の表情を隠した。女学校時代の海老茶色の袴の前で合わせた白い手は、将志の気のせいではなく震えていた。
将志の頭のすぐ横に出っ張った木の枝から、咲き乱れた桜の花弁が、あたかも将志をからかう素振りで、将志の鼻先をひらひらと舞い落ちた。
時は、明治二十九年の春。
東京郊外にある須藤伯爵の屋敷は、西洋の建築家によって設計された二階建ての洋館と、種々の趣を備えた広大な庭園で評判高い。中でも屋敷の外の者にも通行が許された桜並木は有名で、伯爵家と親交のある華族たちが、この季節に伯爵邸を挨拶に訪れる際、わざと回り道をしてこの並木を逍遥なさるほど立派である。
その並木に遮られた、庭園の片隅に、一本の大木がある。庭園内の離れた場所から見れば、その樹が小道に連なる桜たちよりも背の高いことがわかるはずだが、並木に見とれながら小道を歩く者の目にはとまらない。同じ種の桜が連なる並木の陰に隠れるようにしてそびえるその樹は、須藤家がかつて大名であった頃からある古い桜である。
西宮将志と須藤美枝子は、今まさにこの樹の下で向かい合っていた。小道に沿って並んだ桜はまだその薄紅色の花を咲かせはじめたばかりだというのに、この樹はすでに満開を迎え、狂ったようにその花弁を降らせている。――濃く、鮮やかな花弁を。
「……美枝子さん」
将志は、手に携えた山高帽に落ちた花弁を払うと、何と続けるか思いつかぬままに彼女の名を口にした。今彼女に言うべきことはいくらでもあるようにも、もう何も言うべきではないようにも思われた。ああもはっきりと、しかも二度も断られ、これ以上一体何を言おうというのか。
しかし将志は口を開かずにはいられなかった。何やら正体のわからぬ圧迫感に押しつぶされるような心地だったのだ。それは、頭を下げた美枝子の沈黙か、それとも別の何か。
将志の目の端に、絶えず桜がちらついていた。彼の頭の高さよりも低いところから分かれる枝、その先にひらいた濃紅。さらに上から降ってくる花弁。土と花の湿った匂い。まるで、桜の檻の中に閉じ込められでもしたような。
「この桜は……」
彼は自分でもなぜそのようにつぶやいたのかわからなかった。自らの声をその耳で聞いて、はっと我に返ったほどだった。
自分は今、美枝子に何を言おうとしたのだろう。何かがおかしいと、思ったような気はするのだが。
「将志さん?」
「ああ、いや、いいんだ。その、何でもないよ」
将志は、この並木からはずれた桜が、美枝子にとって大事な樹であることを知っていた。須藤伯爵家の一人娘である美枝子は、幼少の頃からこの樹とともに育ったという。すぐ近くの桜並木を訪れる者は多いが、この桜の前に立つ者は少ない。並木の裏にぽっかりとひらけたこの場所は、桜一本だけれども美枝子にとって秘密の花園だったのである。
おかしなことなど、あるわけがない。この桜は、将志にとっても大切な樹だ。美枝子と会い、語り合った時、いつもここにあった樹だから。
将志には、言うべきことが見つからなかった。美枝子は将志を断ったという事実が、彼の身に重くのしかかる。「ごめんなさい」。これが、美枝子の純然たる本心なのであろうか。自分たちは良き恋人同士だった。一度目に求婚を拒まれた時から、将志には彼女の拒絶の理由がずっとわからないのだ。
将志のことが本当に気に入らぬというのなら、非難を浴びせてとっとと屋敷に逃げ戻ればよいはずではないか。それなのに美枝子は、まるで将志を拒み傷つけることに自らも傷ついているような顔をして、彼を見る。彼女の目には、将志への失望も軽蔑も見当たらない。それくらいは目を合わせればすぐにわかる。けれども彼女の胸の内まで見通すことはかなわない。
まったくどうしたものかと途方に暮れる将志のことを、すぐ近くで桜が見ている。
――なあ、桜よ。おまえは美枝子と馴染みだろう。わかるものなら教えてくれないか。
心の中で呼びかけてみるも、桜はもちろん何も答えてはくれない。やわらかく吹き抜けた春の風に体を揺らして、将志のフロックの襟に花弁を落としてくるだけである。




