◆新世紀へ
明治三十六年、わが国は西園寺内閣のもと、英国の後ろ盾を得て北方の大国・露西亜との開戦に踏み切る。
これを受け、西宮家嫡男・貴志は露西亜の友好国である仏蘭西から急遽帰国し、まもなく外務省に入省した。ポーツマスにて露西亜との間に講和条約が締結された後は度々英国に渡り、外交官としてその手腕を発揮した。終身の貴族院議員であった侯爵の没後はその爵位を継承、西宮家の当主となった。西方、旧播磨国においても西宮家の影響力は衰えず、本邸には多くの書生や議員の出入りが絶えなかったという。
西宮将志は、公館に勤めていた際に知り合った帝大のとある高名な学者に師事し、後に史料博物館職員として史学、民俗学の各領域で研究事業に携わった。妻・美枝子を伴って日本各地を訪れ、対露西亜戦争後には西欧旅行にも出ている。人は自己を知らねば他と渡り合えぬが、他を知らねば自己を真には理解できぬ。彼は他国を学ぶためではなく自国を知るために西欧に赴き、見識を深めた。その生涯で彼は研究者としては極々平凡な功績を残した。華族の道楽と見るには立派に過ぎるほどの功績である。後年の彼はこの国の良き理解者となり、そして同時に、良き批判者となった。
日露戦争の折、帝国軍人であった須藤伯爵は、自ら志願して大陸に渡り、名誉の死を遂げられた。須藤家には美枝子の他に子弟はなく、現伯爵の後継ぎとなる直系男子がなかったため、伯爵の訃報を受けた須藤家は伯爵の遺志に従い、謹んで爵位を返上した。その後、美枝子と将志との間に伯爵の直系の孫にあたる男子が生まれたが、須藤家は爵位の返還を求めず、明治四十二年、須藤伯爵家は絶えた。
伯爵家庭園の桜は、邸宅が他の手に渡ってもなお人々を惹きつけてやまなかったが、昭和二十年、春を待たず灰となった。




