◆小道は通ず
「そうか――それが、答えか」
わかりたい。将志はこれまで幾度もそう望み、挫かれてきた。庭の草木、父や兄、そして美枝子。他を求める将志の孤独な心は、いつも何かを理解したがり、誰か他人の中に自分を置いてくれる場所を見出そうとしていた。
それゆえに彼は相手の存在を真に受けて、必死に耳を澄ました。その相手が植物でも、人間でも。
聴くことは、力ではない。
他の存在を真剣に認め、その相手を「わかりたい」と思う心そのものなのである。
疎外感を覚えた幼き日の将志にとって、庭の草木は大事な存在だった。将志は彼らのことを理解したいと心から望んだ。彼らの魂のようなものを信じ、その心を「わかりたい」と求めた。だから聴こえたのだ。
対して、他人と接することに苦のない者どもにとっては、人と同等に植物と関わることなど不要である。人に対するのと同じように彼らを「わかりたい」と思うことはまずない。ゆえに、この時代のありふれた日常を忙しく生きる者にとっては、植物は植物でしかなく、彼らの声は聴こえない。将志もまた、人間たちの声に耳を傾けるようになるにつれ、彼らの存在からは遠ざかった。将志が樹の声を聴けなくなった理由が、彼が聴くことをやめてしまったからであるという推測は、その限りでは正しかった。
他をわかりたいと思う心に、差などない。関わりたい、聴きたいと思えば、わかりあえる。自分以外の「何か」や「誰か」と真剣に関わるということは、そのものに興味をもち、そのものの存在を認め、共にあるものとして受け入れるということ。相手をわかろうという姿勢がなければ、心を通じ合わせることはできないし、自分をわかってもらうこともまたできない。
気づいてみれば、何のことはない、ただの当たり前のことではないか。他と繋がるということ、世界に混ざるということの出発点。幼い将志に庭師と草木が教えてくれた、生きるものの理だ。
他との間にある絶対的な差異が生む、虚しさ。それゆえに人は他を想い、理解しようとする。その欲望と執着が生を繋ぐ。
「将志さん。昨日のあなたの指摘は正しいものだったわ。私はあなたに嫌われるのが怖くて、何も言えなかったの。でも、この樹はとっくに気づいていたのね、私が執着を知ったことに」
それも、あなたへの執着に。
美枝子は僅かに顔を赤らめながらそう言い添えた。将志に、「あなたと結婚します」という返事をしたに等しかった。
「ああ。だから桜は僕を呼んだのさ、きみを助けるようにとね」
「私があなたを選べるように、というわけね」
その通り、きみが選んだのはよりにもよってこの僕さ、と将志は目を細めて自分と美枝子に対して笑った。
「この樹自体は、きみが変わってしまってもよかったんだよ。心を捧げてくれなくても、声を聴いてくれなくなっても。わかっているはずだ、人の生涯が短く、人の心も社会も変わらずにはいられないということくらい」
将志はふと、桜並木の方に目を向けた。目の前の大樹とは裏腹に、今ちょうど満開を迎えている。
――……イル。
何かが、将志をそちらに呼び寄せたかのようだった。
その時、彼の脳裏にはっきりと、幻に見た桜が像を結んだ。閃きが将志を射抜く。この鮮明さは、間違いない、同じものが今ここにあるからだと。
沈む桜が将志に見せたのは、弥助と奥方の姿だけではなかった。将志は幻夢の中で、競うように並び立つ何本もの桜を見た。
――ココニ、……ル。
幻に見たのと同じ桜が、そこにある。今、将志の生きる、この現に。
「――ああ、そうだね」
感嘆は無意識に声に出ていた。自分の声で我に返り、将志は美枝子に「おいで」と手を差し伸べた。震えはすでに止まっていた。
「どうしたのです」
美枝子は将志の意図を汲めなかったが、素直に従った。
数十歩も歩かないうちに、二人は通り慣れた小道に出る。そこは満開の桜の回廊である。
「ご覧、この小道を」
将志は遠いを目をして、小道の一方の先を見つめる。
「あの桜の記憶の中でも見たんだ、まだ道ができる前のこの場所を。揃って咲くと、やはりすごいな。神々しいくらい迫力がある。この道をこのまま歩いていけば、過去や異界に繋がっているんじゃないかという気がしてくる。神が通って行きそうなほど綺麗だ」
「そうね。でも通り抜けた神様は吃驚なさると思うわ。この先は、外の大通りだもの」
「神の国ではない。そうだよ。この道の先にあるのは、外の街、新しい世界だ。きみだってこれまで何度も、この小道を通って外に出ただろう。学校に通い、買い物をしたり他のお屋敷を訪れたり。そしてまたこの道を通って帰ってくる」
ここは、古い時代にも新しい世界にも通じている。
桜の並ぶこの小道は、新しいものの溢れる近代的な世界に繋がっており、同時に、ここを通り過ぎる者どもにこの国の伝統や精神を取り戻させる。この国に生まれ育った人々が共有する郷愁や情緒、桜を美しいと思う心を、我々の奥底から呼び起こして思い出させてくれる。
このような形で樹々を残そうとした伯爵は、古きも新しきもよく見通しておられるに違いあるまい。
「怖いことなんかないのさ。繋がっているんだよ、あらゆることが」
将志は思う、我々はずっと昔、皆が草木の声を聴くことができたのではないかと。人々はずっと昔から、自然と一緒に生きてきた。昔はもっとたくさんの人が、植物に宿る魂を信じ、その声を聴いたように思うのだ。
人と自然は共に生きてきたもの同士。互いに互いの世界を構成する一部なのだから。今でも声を聴く者があること、桜を慈しむ心があることは、その名残のように思われてならない。血を通じて、今も我々の内を流れ続けるものが確かにある。
将志は、叔父の言葉を思い出す。酒宴の夜、彦次郎は言っていた。
――桜は一部なのだと思う、我々の生きてきた風土や、何百年と続く営みの。
叔父上。あなたもかつて、声を聴かれたのではありませんか。実際に彦次郎にそう尋ねることはおそらく一生ないだろうが、将志にはこの推量がそう的外れでもないものに思われた。
「聴こえなくなっても、きみはきみだ。偉くなるわけでもなければ、きみの何かが損なわれるわけでもない。聴こえることも聴こえないことも何ら特別なことではないし、聴こえようが聴こえまいが……」
「ずっと一緒。そうでしょう? だって――」
美枝子は笑った。その顔はたいそう美しかった。これでは弥助があの美貌の姫君の面影を見ても仕方あるまいなと将志が溜め息を吐くほどに。
――ココニ、イル。
「聴こえるわ」
この小道の通ずる先に何があるのか――それを見に行かねばならぬと将志は思った。
人が何を「わかりたい」と望むかは、月日とともに変わりゆく。ここ数十年、この国の変化は著しい。聴くことを求めない文化が急激に押し寄せてきたのである。新しいものが溢れかえり、人々の生活や習慣が大きく変わった。この国は、西欧からもたらされる新たな価値を一心に求め、これまでの営みや因習を抜け出そうと足掻いている。これまであったものを顧みない時代が来ている。その風潮の中で聴こえる者は珍しくなり、美枝子のように孤独を感じたり、将志のように驕りや軽蔑の種としてしまったりする。
しかしそうなってもなお、我々の精神に名残はある。文化や精神の一部に桜を残し続ける。共存し、関わり合ってきた一部を無意識のうちに知っている。
変わっていくというのは、何も、古いものをそっくり捨てて新しいものに置き換えてしまうことではない。そんな思い切りのいい、単純なものではないのだ。おそらくもっと繊細で、それでいて出鱈目でもあり、とても複雑で曖昧なものだ。
古きものはただ失われ忘れられていくのではなく、古いものも新しいものも同じように溶け合って、世界は流れるように変わっていく。時には山道を進むように堅実な歩みで、時には急流にさわられるように混乱しつつ。
西からの風に花は散ってしまうかもしれないが、その後には若葉が茂り、枝は空を目指して伸びるだろう。樹は冬を耐え抜き、また花を咲かせるのだ。そうやって命は繰り返し、営みは続いていく。潔く捨てるから美しいのではない。混ざり合い、繋がりながら生きているから美しいのだ。
我々は生まれた瞬間から、そのなかにいる。古くから通じる大きな営みのなかに、そして、新しい時代へと突き進む当世のなかに。
これが、西宮将志という人間に見えている、この国の姿だ。他の誰とも違って見える世界の姿ゆえ、完璧に分かち合い理解することのできる者などいない。けれども他人同士、認め合うことは可能なはずであり、またそうすべきなのだ。自分のためにも、相手のためにも。まだ見ぬ将来がどんなものであろうとも、我々は、志すものの噛み合わぬ他人同士、皆一緒に向かうしかないのだから。
ようやく返事が書けそうだ、と将志は思った。仏蘭西にいる貴志への返事である。
――この地に生まれた僕らは、はるか昔から、数多のものと互いに一部を混ぜ合って分け合って暮らしてきた。その営みを、急拵えの基準に照らして「野蛮だ」「未熟だ」などとは言いたくない。愚かにも脆弱にも映ることがあるかもしれないが、僕らの歩んできた足跡は、僕らの矜持であり、心の拠り所でもあるはずだ。自らの命や生活に価値を見出し、営みの輪を投げ出さずに守る、そういう切実さと清らかさの淵源までをも、見失うわけにはいかない。今この時代にあるからこそ、考えなければならない。どう変わっていくべきか、新しいものとどう混ざり合っていくか。
僕はそれを考えたい。
自分の生まれを誇りに思う、だからそれに報いて自分の使命を果たしたい。兄上とやり方こそ異なるかもしれないが、僕は僕なりに、この国の一部であることに見合った生き方をしたいと思う。
ですから、兄上――。
この度のお誘いは大変光栄なのですが、僕は自ら選んで、ここに残ることに致します。




