◆理解と執着
その凛とした声は、樹のものでも、弥助のものでもなかった。
「――ごめんなさい。私は、この世に未練があるのです。この世のものに心を注ぎ、この世の人と生きていくと決めたのです。この世を生きるもの以外に差し上げる魂は、私は持ち合わせておりません」
毅然とした声音はまるで幻術のようだった。美枝子の声が止むや否や、吹雪は急速に勢いを削がれ、視界を覆わんばかりだった紅ははらはらと地に落ちていった。
当然のことながら、将志は美枝子と共に、見知った庭に立っていた。須藤邸の、桜並木のはずれに。
「将志さん、大丈夫ですか」
「ああ。きみこそ無事か」
将志は半ば呆然としていた。
美枝子が「ごめんなさい」と発したあの瞬間、冷たい手でぐっと胸を掴まれたように心が強張った。将志は、また自分が謝られているのではないかと身構えたのである。
けれども、そうではなかった。まだうまく信じられないが、美枝子は踏みとどまった。
ふと気がつけば、桜の花は優しげな薄紅色をしていた。桜の樹はあるべき姿に戻りつつあった。咲けども咲けども途絶えなかった花弁が、急速に衰えていく。他の桜が満開を迎える中、少し早く盛りを終えただけの、ただの一本の桜になる。新緑の葉をのぞかせた姿は惨めで侘しい。しかし不思議と心が安らぐ。
「どうやら助かったらしいな。桜も元通りだ」
将志が美枝子の方を振り向くと、彼女は顔を背けて呟いた。
「……どうして。どうして、お逃げにならなかったのです。私がなぜ桜との約束にこだわり、あなたを拒んだか、わかっているのでしょう。桜は、いえ、正しくは弥助の魂ですが、とにかくこの樹は私の心を求めていました。それを邪魔すればあなたが危ない目に遭うと思ったから、だから私は、あなたに何も言わずに、あなたを桜から遠ざけようと……」
彼女が将志の求婚を拒み、その理由を語ろうとしなかったのは、ひとえに将志を守るためであった。桜の異変について何も言わなければ、もはや樹の声を聴けぬ将志を巻き込むことはないと考えてのことだったのであろう。美枝子が求婚を拒むことにより二人の縁が絶えれば、将志は桜から遠ざかるはずだった。
ところが、求婚を拒まれた将志は美枝子からも桜からも退こうとしなかった。そこで美枝子は、将志に幼き日の約束と、他人を愛せぬ己の本性を打ち明けた。将志に軽蔑をされることを覚悟の上、将志を遠ざけようとしたのである。
「だからって、僕を拒み、挙句に逃げろというのはあんまりじゃないか。きみを置いて逃げられるわけがないだろ。頼むから、もうこんな無茶はやめてくれ」
美枝子はようやく将志の顔を見た。
「無茶はどちらかしら。この樹の謎を解き、死者を鎮めるなんて。手に負えないようなものだったら、どうするつもりだったのです」
「どうしようもないさ。僕は端から、与えられた手掛かりを繋げること以外に自分にできることはないとわかっていた。それで負けるなら仕方なかろうとね。実際、弥助を鎮めたのはきみだろ」
美枝子の「ごめんなさい」に続く返事を、弥助は受け入れた。
弥助は今ようやく、奥方が晩年に「死ねなかった」と言った意味を悟ったのかもしれない。見失っていただけで、実際は弥助だってもともと知っていたはずだ。命あるものの美しさは、その死に方によってではなく生き方によって決まる。奥方のことが愛しいのは、彼女が自分より早く世を去ってしまったからではなく、彼女の生きる姿に惹かれたからに違いない。愛する女から生の尊さを知った彼には、奥方と同じく「この世を生きる」ことを望んだ美枝子の願いを撥ねつけることなど、できるはずもなかったのだ。
結局すべては美枝子の選択次第だったのである。つまりはこうも言える。将志は、美枝子との繋がりを諦めさえすれば容易に逃げることができた。これまで通り、真剣に挑むことを避け、自分を誤魔化してしまえば、傷つき怖れることなど何もないはずだった。
しかし、彼は逃げなかった。
「……怖かったのね、本当に」
ふいに、将志の胸中を察したかのように美枝子が言った。
「え、何が」
「手が、震えてらっしゃるもの」
将志はそう指摘されてはじめて、帽子を持つ自分の手が痙攣していることに気づいた。止めようとしてみても、情けないことに弱々しく拳を握るのが精一杯だった。
「はは……これでは格好がつかないな」
「なんだか、変な感じ。あなたはいつも堂々としていらっしゃるのに」
「きみの前では特に行儀よくしているんだよ。父上の前ではいつもこんなものさ」
「もう、冗談ばっかり」
「いつものことだろ。だってこうでもしないと、僕は……」
これ以上は茶化せなかった。将志には、それが安堵のせいなのか羞恥のせいなのかはわからなかった。あるいは良心や謙虚さのせいかもしれなかったが、それも定かではない。
「すまなかったな」
躊躇いや気後れは感じなかった。声も心もひどく乾いていて、声に出しているという実感も湧かないくらいである。将志の頭の中では白々しいほどわかりきっていたことが、今ようやく言葉になって吐き出されていく。
「僕は、きみに対して無責任だった。きみのことをわかってやれるなどと偉そうなことを言い立てて、傲慢にもきみを縛ろうとした。僕は大馬鹿者だった。自分が薄情な恋人だったと認める。謝らないといけないのは僕の方だ」
将志の持って生まれた鋭い感受性は、とうの昔に彼自身の欠点と過ちを認識している。一般に、人の欠点は自覚することによって改善されると思われているが、少なくとも彼の場合は違った。彼は自覚がありながら欠点を改めなかったばかりか、己の美点たる賢さと器用さでもってそれを巧妙に隠してきたのだ(もちろん、それこそ卑怯で醜悪だということもまた彼は自覚していた)。愛想よく振る舞って機嫌をとっていれば、周囲は咎めないどころか、気づきもしなかった。意欲も考えもなく空っぽな精神も、ふざけるばかりで中身を伴ったことなど何も為さない怠慢も。ゆえに彼は自分を甘やかしたまま大人になった。すべき努力を怠り、立ち向かうべき苦悩を避け、誤魔化しの効く周囲の者をどこかで軽蔑もしていた。彼はそんな自分をこそ軽蔑していたし、誠実に他人と交わりたかった。しかし皮肉にも、そう思って彼が自己を恥じるたびに、器用な虚栄心は醜さを巧く隠し、人知れず彼の醜さは増大していった。
美枝子といると、ずっと飼い殺してきたその化物さえもが赦されたような気がした。彼女が気高く清らかなものであればあるほど、将志の卑屈な心は慰められた。彼女から得た安らぎは心地よかった、己の愚かしい過ちや欠点を忘れさせてくれるくらいに。彼女への愛情や尊敬、さらには彼女の存在そのものを、彼はいつの間にか自己肯定の道具にしてしまっていたのだ。
本当はただ、彼女に好かれたかっただけなのに。
「将志さん」
美枝子の声は将志を労わるような調子で、ひどく優しかった。
「私が知っているあなたは確かに、少し厚かましくて、高慢な方。そのくせとても臆病で、傷つきやすい方。勤勉になることを恐れているみたい、すぐに怠けて楽をなさろうとするところもございます」
声は優しいままだったが、その指摘は鋭く核心を突いていた。
彼女は微笑んでいた。その顔を見て気が緩み、将志は「言ってくれるね」と薄く笑った。
すると彼女は痙攣する将志の右の手をおもむろに両手で包み込み、まるで神聖なものを扱うように丁重に、将志の手を額に押戴いた。
将志はされるがまま、黙って美枝子の手を見ていた。自身の指が美枝子の眉間のあたりに触れた時、ふいに自分の体温が生々しく意識された。体中を巡る血を熱いくらいに感じたのだ。
美枝子が言葉を紡ぐと、温い吐息が将志の手首にかかった。
「それにあなたは、草木の声を聴くことをお望みではなかったでしょう。わかっていたのに、私は、あなたが自分に時間を割いてくれとおっしゃった時、あなたを拒めませんでした。あなたのこと、なんて自惚れ屋なのかしらと思った。でも、あなたは薄情ではないのだわ。私があなたを拒めなかったのは、私のことを、わかりたいと言ってくださったからよ」
額から手をおろした美枝子は、将志を真っ直ぐに見つめて言った。
「自分のことを理解されないと言って嘆いたり僻んだりする人はたくさんいますけれど、他人を理解したいと思って苦悩する人は、どれほどいるかしら。あなたは、わかってほしいというのではなく、わかりたいといって悩んできた。他を理解しようと努め、それがうまくいかないと自分を責めた。それはきっと、立派なこと。私は、自分が理解されたいと思うばかりでした。あなたに気づかされた。私も、理解されたいならその前に、理解する努力をすべきだったの、あらゆる物事に対して。だからあなたにわかりたいと言われて、私、自分が恥ずかしかったけれど、でもそれ以上に、とても嬉しくて、あなたのような人に興味をもってもらえることが誇らしかった。期待せずにはいられなかったの。あなたなら、本当の私を見て、わかってくれるような気がして」
その時、将志は彼女の中に、探し求めていた真理を見た。




