◆正体
将志の意識と混ざり合った桜が見せた、昔日のこの場所の光景。あれはまさに桜の異変が起こった原因の一端であった。
地面に潜り、狂ったように咲き続ける濃い紅色の桜。この暴走を引き起こしたのは、この下に眠る亡者なのだ。
その亡者の正体を、将志は確信している。桜を通して見た記憶の中で、度々流れ込んできた一人の人間の思念があった。家臣として須藤家に仕え、姫が婿を迎えてからも彼女を支え続けた、あの男――。
「美枝子さん、きみは僕に会った時、一つ嘘を吐いた。もしくはきみ自身、この桜について誤解していることがある」
「何のこと?」
「この桜、この一本だけが、あっちの桜より古いのかい」
将志は目線で美枝子の背の向こうにある並木の方向を指し示した。
「他のと同じ種類なのにこの樹一つだけが大きいというのは、どうにも据わりの悪い話じゃないか。もともとこの種の桜がこの場所にたくさんあり、それらを伐採して並木を造った、と考える方が自然だ」
美枝子から聞いた話と、生家で庭師から聞いた話との間に矛盾があることに、将志は気づいていた。それで、この桜がどうして一本だけ大きくなったのかを考えた。
「草や樹は死に繋がる。桜は人を喰う。墓地の桜が美しく成長するのもそのせい。この桜が他よりも大きくなったのは、死体を得て成長が早まったからさ」
この紅い花は、死体の血を吸ったのだ。
桜はあの男――弥助の死体を喰った。そして成長が早まり、明治になって並木道が造られる年代にはすでに地中深く根を張り、他の桜に比べて立派な大樹となった。伐採されずに残り、今に至る。
弥助は死してこの桜の下に埋められて供養されたが、それでも今なお、ここに留まっている。桜の下で生きる、いわば亡霊。その思念が桜と溶け合い、影響を及ぼしている。
「この樹の下にいるのは、弥助という哀れな男だ。ずっと昔、この家の姫君に仕えていた家臣で、従者の身分でありながら姫と特別な関係にあった。姫が別の男の奥方になってからも。当時、このあたりは奥方様の住まう対の縁側に面した庭で、この樹と同じ桜があった。この桜を、奥方様は大切にしていらしたらしい。弥助は、奥方が愛でたこの桜の下で死ぬことを望み、おそらくその望みどおり、彼はこの桜の根元に埋葬され、この樹は彼の墓標となった。彼の死と未練が、桜の成長を早めた。彼の未練が、この桜の下で生きているんだ。彼は奥方への想いを断ち切れないで、世を恨んだまま死んだ。そこで止まった彼の思念が、この桜から離れない」
「それが、この樹が見せたという記憶なのですか」
「そうだ」
「ですがその者が埋められたのは、もうずっと以前のことなのでしょう。それがどうして今になって」
「きみに、手に入れることの叶わなかった奥方の面影を見ているからだ。奥方は桜をとても愛していた。もしかしたら、きみのように言葉を交わしていたかもしれない。きみは桜を相手に約束を交わした。それは弥助の念願を叶える約束でもあったんだ」
他の男を愛さないという誓い。心を、魂を差し出すという契り。弥助は、変わらぬ姫の心が欲しかった。
「地中に埋められた彼の死体は桜に力を与えたが、きみを見出した弥助の念は、逆に桜の精気を吸い取り、きみに近づいた。奥方様を探して彷徨う亡霊は、奥方を思うあまり、きみを彼女に重ねて、きみに懸想をした」
「この桜の異変も、そのせいなのね」
僕の見立てでは、と将志は頷いた。
「桜が沈むのは、弥助の亡霊が根を飲み込み、幹を引きずり降ろそうとするから。紅い花の色は、弥助の血か恨みか。弥助が桜を狂わせているのだと思う。桜を介して、きみを呼ぶ。きみの心を求めて」
さらに将志は続ける。
「でも、殊更に危険というわけでもなさそうだ。桜はこれまで、成長が早まった以外に大した変異はなかっただろうし、その間弥助は長らく眠っていただろう。未練を残したといっても、積極的に誰かを呪うような質のものでもない。それでもきみを見つけるのは難しくなかったんだ、きみは自分からこの桜のもとを訪れるわけだからね。そして、桜もとい弥助が暴走をはじめたのは今年、僕がきみに求婚をした時期に重なる。きみが言ったとおり、きみが約束を反故にする惧れが高まったからだ」
「桜は、私を亡霊から守ろうとして、あなたを呼んでくれたのかしら」
美枝子の察しの良さに、将志は舌を巻いた。まさに、話はそこに繋がるのである。
「桜の異変の、具体的にどれが弥助によるものなのか、それは弥助が意図を持ってしたのか、それともただ暴走した結果なのか、細かいことはわからないけれど、少なくとも桜が僕を呼んだことは間違いない。桜は僕に警告してくれようとしていた。僕に過去を見せ、弥助の思念を共有させたのはその証拠。それで、桜が言った『助けて、美枝子』というのが間違いなく僕に向かって発せられたものであることがわかった。だとすると、その意味するところは『美枝子さんを助けてくれ』なのだと合点がいく、というわけだ。僕が桜の声を聴けたのは、僕が、桜と同じ気持ちだったからなのかもしれない」
将志は桜に一瞥をくれてから、美枝子に向き直った。
そして、胸中で自分に言い聞かせる。――これから言うことを訴えることができるのは、僕だけだ。桜でも弥助でもない。
「美枝子さん、このままでは、きみはまともではいられなくなる。弥助の妄執と言うべきか怨念と言うべきか、いずれにせよ、きみはこの桜に魂を引きずられてしまうだろう。亡霊や桜のことは誰かに相談することもできないし、鎮め方もわからない。捨て置けないのはわかるが、これ以上思い詰めるのはよしなさい。桜に狂わされてしまうぞ。――それとも本当に、約束通り心を捧げてしまうつもりなのか」
美枝子の心に、執着があるかどうか。
最終的な問題はそこにあると、将志は考えている。桜との約束、魂を狙う亡霊。常人が聞けば、このようなものは呪いだというだろう。あるいは、樹と話すことそれ自体をもそう捉えるかもしれぬ。しかし、それらがたとえ呪いだとしても、それを生むのは樹や亡霊ではない。
呪いを生むのは、美枝子本人だ。すべては美枝子の心の在り様次第。彼女の孤独が、彼女をこの樹に縛りつける。弥助の未練や昔の約束が纏わりつくのは、彼女がそれを望んでいるからでもあるのだ。
浮世の穢れや移ろいを忌み、清らかな普遍の死に惹かれる心を、人は無自覚のままに持っている。なかでも孤独な魂に対しては、死の誘いは一段と甘く忍び寄る。草木の語りかける世界を失いたくないと思うばかりに、自分を締め出し急速に変化する世間への怯えは募り、現世への執着は死の匂いに負けてしまう。
「私、……」
美枝子は何かを言いかけたものの先は続かず、声は弱々しく途切れた。
将志を見つめ返す美枝子の戸惑いと失意の眼差しは、己に自信の持てぬ者の、孤独な目。
その目は、知性の光やうら若き乙女の色香よりもはるかに強く、将志を惹きつけた。これまで蓄積してきた浅ましい劣情と純真な愛慕の念が滾々と湧きあがり、将志の胸を満たした。
「答えを決めてしまう前に、その、聞くだけ聞いておいてほしいのだが……」
つい先程まで朗然たる口調で真相を述べていたというのに、ここにきて将志の弁舌は衰えていた。
「僕は、今日ここに来てきみに会うのが、本当は少し怖かった。なぜきみが僕を拒むのか、その理由を知ってしまうことになるから。ずっと、それを知るのが怖かった。きみを引きとめる大義名分を失ってしまったら、僕は今度こそきみを諦めるしかなくなる。きみが本当に何を選ぶのかはわからなかった、ただ、どういう形であれ、きみを失うかもしれないと考えるのは、僕にとってとても恐ろしいことだ、でも……」
将志は言葉を整理するために、少しの間、口を閉じた。
美枝子をこうも愛していなければ、もう少しましに言えただろうが、今の将志には難しかった。心を落ち着けて、将志は続けた。
「でも、きみは僕のことを心配して泣いた。これまでだって、僕の話を聴き、笑ってくれた。僕を認めてくれた。僕を拒むきみはとても傷ついた顔をしていた。嘘や偽りなどではなく。きみは分別のあるふりをしていたと言ったけど、僕が思うに分別なんてものは、本当に身につけていなければ人前で示すことなどできない。きみは誠実に、真心でもって僕と関わっていたんだよ。そのきみが他人を愛せないなんて、そんなはずないじゃないか。きみは孤独ではないのさ。それだけは教えてやらなければと思ったから、勇気を出してきみに会いに来た」
将志は自分がたいそうな人間でないことを知っている。将志が己の知る真実を告げてもなお美枝子が彼を選ばず、彼に敗北を求めるのならば、彼はそれを甘んじて受けるしかないのだ。彼がしたのはそういう覚悟だ。
「だから答えてくれ、美枝子さん。きみが僕を拒んだのは、桜のためか。それとも――僕のためか」
美枝子の黒い瞳は光り、揺れていた。
「私があなたを拒んだのは、誰のためでもありません。桜と交わした約束もそう。私が望んでしたことです。私は約束通りにするしかないの。だってもう私は――」
その時、突如として風が吹き荒れ、花弁が空中に渦を巻いた。
――私は、失いたくない、あなたのこと。
無数の蝶が羽ばたいたような風の唸りに掻き消されたそれは、愛しい男を想う、ただの一人の女の真情に他ならなかった。
花弁を巻き込んだ風の渦が、美枝子を呑み込まんばかりに襲いかかる。
それを察知した将志は咄嗟に踏み込んで、美枝子を背に庇うように立ち塞がった。
「いけません、将志さん!」
すぐ後ろの美枝子の悲鳴すら遠く感じるほどの轟音が、将志を包む。
ついに現われたな、弥助。美枝子と親しくなるにとどまらず、将志は沈む桜の実体にまで手を掛け、さぞや彼を刺激したことだろう。
美枝子の叫びは「お願い、逃げて」と懇願する。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「大丈夫だ、美枝子!」
彼女がどんな顔をして聞いているのかは知らないし、きちんと聞こえているのすらもわからない。
でもどうか、聴いてくれ。
「失くすなんて考えるな。きみの心は僕が引き受ける。だから……」
――大丈夫なんだよ。
言いかけたとき、フロックに絡みついた不気味な濃紅の花弁から、思念が流れ込んできた。何かが、衣服を貫いて肌を刺すように将志の中に入ってくる。まるで美枝子を今この現実から引き離してしまおうとするかのように、桜吹雪が景色をさらう。
砂埃に目を閉じると、夜桜が見せた夢幻の屋敷が瞼の裏に明滅した。
風の中で、声を聴いた。
「――ごめんなさい」




