◆桜の樹の下には
将志の顔のすぐ横に、花があった。一番低い枝から出た花ではない。樹の全体から言えば、本来は手の届かぬ高さに咲くはずの花だった。
将志は沈む桜の樹の下に立つ。並木道から隠れるように樹の裏に背中を預け、紅い花弁が散るのを眺めている。
低いところから分岐する枝。根ごと地面にもぐるように背丈を縮める幹。樹の下に立つ人間を地面に追い込むようにかぶさってくる花の檻。土と花の匂いが強い。濃い紅に、心まで埋め尽くされる。
「――僕にお任せなさい。大丈夫だから」
帽子を脱ぎ、将志は穏やかに語りかけた。語りかけた相手はもちろん桜だが、それだけではなかった。
自信を見せたかったのは自分自身に対してであり、また、将志の記憶にあるいくつかの時点の美枝子に対してであった。昨日か、昨年か、あるいは出逢った頃か。将志と出逢うより前、この世を見限ろうとした美枝子か。
桜の返事はない。声は聴こえぬ、花の色も戻らぬ。
やはりそう簡単にはいかぬか。わかっていたよという風情で、将志は淡い笑みを口の端に浮かべた。
目を閉じて、風に揺れる草木の音を聞いていると、待ち人の気配を樹の反対側に感じた。すぐに声をかければよいのに、そうせずむしろ息をひそめたのは、ほんの出来心だ。
ふと、樹に凭れた背中が温かく感じたが、これは錯覚に違いない。
「将志さん、いらっしゃるの?」
「……どうしてわかったんだい。桜が教えたか」
じっと身動きをしなければ、将志が樹の裏にいることは美枝子にはわからないだろうと思ったのに。樹の幹を通じて何かが伝い届いたのだろうか。
将志は枝をくぐって美枝子の前に姿を現した。
「やあ、きみを待っていたんだ。来てくれると思っていたよ」
「もう、お体は大丈夫なのでしょうか。先日は……」
「おっと、今は謝るのはなしだ」
美枝子の言葉を遮ってから、将志は言った。
「謝るかどうかは僕の話を聞いてから決めてくれ、それでも遅くない。それに、まず僕がきみに謝ることがある。あなたに送った手紙に嘘を書きました、申し訳ありません」
「嘘ですって? では、桜の呪いに苦しんでいるというのは……」
「まさに、その部分が嘘です。ここに来てあなたに話を聞いてもらうための。どうか許して、まずは僕の話を聞いてもらえないだろうか」
将志の真摯な態度から何か意図があることを汲み取ったのか、美枝子は押し黙って頷いた。彼女の目には、落ち着いた聡明な色が灯っている。耳を傾けようとしてくれているのがわかる。
「きみの言い分はわかっているつもりだ。この桜は沈んでいる。それはきみが約束を反故にするのを阻止しようとしているからで、きみとの約束を実現しようとしているからだ。きみが僕と結婚するのを止めたがっている」
「そうです」
美枝子は桜と約束した。大人になり、嫁に行く年頃になっても、この樹を忘れないと。魂を捧げると。
「しかしそれでは辻褄が合わない。不自然なんだ。桜が沈んだこと理由にしてはね」
「どういうことです」
「桜がきみを呼びたいのなら、沈まない方がいいということだよ。おかしいと思わないか、僕は桜の声を聴けない。それくらい桜はわかっているはずだ。きみにだけ聴こえるのだから、桜は素直にきみに呼びかければいいじゃないか。きみを引きとめたいのなら、邪魔者の僕に気づかれないようきみを説得する方が余程自然なやり方だと思う。それなのに、沈んだり花の色を変えたりするから、僕は桜の異変に気がついてしまった。僕という邪魔な人間の男ははじめから排除できたはずなのに、これではまるでわざわざ沈んでみせることによって僕を巻き込んだみたいじゃないか」
沈んだことには何らかの原因があるのではないかと、将志はそこを疑った。美枝子を呼ぶ以外に意図があったか、あるいは桜の他に要因があるか。
それだけではないんだ、と将志はさらに根拠を示す。
「この桜は僕を呼んだよ。きみに二度目の求婚を断られた直後だった」
「呼んだ? 声を聴いたの? あなたは聴こえないはずでは」
「ああ、そのはずだけどね。でも聴いたのさ。桜は僕に、助けてと言った。――美枝子を助けて、とね」
「私、を?」
「そうだ」
あの呼びかけを、そう解釈すれば辻褄が合う。
桜の声を聴いてから、ずっと考えていた。なぜあの時に聴くことができたのか、なぜ桜は「助けて」の後に「美枝子」と言ったのか。桜は将志など眼中になく、「助けて、美枝子」と、ただ美枝子を呼んでいたのかとも思った。
しかし、そうではない。桜は確かに将志を認識し、将志に助けを求めたのだ。
「声を聴いた時は、どういう意味かわからなかった。それに僕にはもう樹の声を聴く資格はない、樹が僕のことを呼んでくれるはずがないのに、聴こえたこと自体が妙だろ。でも、この樹は僕を認めてくれた。僕がここで倒れたのは、桜に危害を加えられてのことではない。気を失っている間、僕は、この樹を覗いたんだ。樹の記憶や思念のようなものをね。――美枝子さん、いつかきみは言っていたね、この樹は墓標だと」
「ええ」
一応頷きはしたが、美枝子は眉根を寄せ、怪訝そうな顔をしている。
「墓標と言うからには、誰かを弔うものなのだろう。誰の墓標?」
「誰の?」
やはり美枝子は知らないのだ。
「いいかい、恐れずに聴くんだ。僕は、この樹は自ら沈んだのではないと思う。沈んだのではなく、沈められているんだ。桜の樹の下には――死体がある」
美枝子の片足が僅かに退いた。
「そしてそれこそが、きみの魂を求めるものの正体だ」




