◆煙の中
空の茜色が、紫煙のせいでくすんで見える。
春の夕暮れは日ごと遅くなっていくようだ。将志は西宮邸の裏口に腰掛けて、葉巻の先端からゆらゆらと立ちのぼる紫煙を追って空を仰いだ。細く伸びる煙に加勢でもするように口先からも煙を吐いて、茜空を一層汚してやった。蝋燭に息を吹きかける子ども同然の一人遊びに、乾いた笑みが口の端から漏れた。
葉巻を銜えたまま、だらしない格好で物思いに耽っていた将志は、屋敷の裏にある通用口に近づいてくる者があることに、当人の声を聞いてはじめて気がついた。
「なんだ、元気そうにしているではないか」
「え、父上……ではありませんか。お勤めご苦労様です。お早いお帰りで」
将志を見下ろすように立つその人こそ、西宮家の当主、西宮志之介侯であった。
洋服をまとった大柄の体躯はただでさえ上背があるのに、気取った山高帽で余計に大男に見える。
「おまえ、医者はどうした。倒れたと聞いたが」
こんなところでの突然の対面に驚いたのも束の間、将志の顔は自ずから仏頂面になる。話の中身など関係なく、侯爵を前にした将志の常の表情であった。
「ご心配には及びません。たいしたことはないのです。医者も昼過ぎに引き取らせました」
美枝子が将志を見舞いに来ていたのは、ちょうど昼頃のことだった。彼女が去った後、つる婆が呼んだ医者に診察を受けた。疲れで神経が参っているのであろうから、しばらく安静にしていれば直に回復するとのことだった。世話役のつる婆に促されて再び床に就いたのだが、目は冴え、気は落ち着かなかった。美枝子が去り際に見せた泣き顔が、瞼の裏から離れなかった。
周囲の物音が途絶えれば、美枝子の声が将志を責めた。
――あなたに何がわかるというの。
頭の中で何度も、そう言われた。
彼はこれまで愚かにも、自身のことを美枝子の唯一の理解者だと自負していた。聴く力を理解しありのままの彼女を認められるのは己ただ一人なのだと。本当は、己こそが彼女の世界を揺るがす最たる脅威となりうるとも知らずに。だからこそ、彼女が将志に突きつけた悲痛な問いかけは、将志がこれまで心の底に秘めていた臆病や自惚れを抉り出し、彼の決意や望みを打ち砕いたのである。これ以上彼女に言うべきことがあるのだろうか。彼女に桜の本性を告げ、今まで通りに生きることに繋ぎ止めなければと思うのは、ただ将志の未練がさせることで、そのすべては美枝子にとって無用なものなのではないかという気がしてくる。美枝子はもう心を決めてしまった、否、もうずっと前から桜を選ぶことを決めてしまっていたのではないか。だとしたら将志には引きとめることなど出来はしない。
何かと世話を焼きにくる使用人の相手をするのも億劫で、将志は自室を抜け出した。屋敷裏のここなら来客の目には触れぬし、屋敷の者もあまり通らぬから、一人の時間を持つには最適である。
しかしそのせっかくの時間も、こうして父に水を差される形になってしまった。
志之介は、将志の返事を受けてもなお立ち去らない。将志が倒れたと聞いてここに現れたこと自体意外ではあったが、まだ何か言いたげな様子であるのは一層意外だった。怪訝そうに眉を寄せて、将志を見下ろしてくる。
見舞いの言葉の一つでも出てくるのだろうかと将志が淡い期待を抱いたその時、志之介の口から出たのは「おまえ、何で笑ってるんだ」という問いだった。
この仏頂面の一体どこが笑っているというのか。問いの意味がわからず、将志が二度三度と瞬きをしていると、父はこう言い換えた。
「笑っていただろう、さっき。私が声をかけた時。上を向いて、一人で」
空に向かって紫煙を吐きかけて遊んでいたことを言っているのだ。
「え、あ……」
不意を突かれた指摘に将志はまごついた。父の顔に浮かんでいた訝しげな表情は、倒れた息子への心配ゆえでなく、一人で薄ら笑いを浮かべる息子を気味悪く思ってのことだったのだと感じ取り、将志の視界はかっと赤く染まった。
「昔からそうだな、おまえは。何がおかしいのか、一人でにやにやしたり、何事か口にしたりすることがあった」
少年時代、植物と話すことも含め一人で遊ぶことの多かった将志は、一人で考え事をして過ごすことも多ければ、独り言も多い子どもであった。若い女中たちをからかうことも好きだったが、その悪戯を一人で考えることの方が好きだった。それに、植物の声に反応する将志は、それこそ相手もいないのにしゃべったり微笑んだりしているように見えただろう。だが、このように正面から疑問を呈されたのはほとんど初めてのことで、父の物言いの素朴さが将志をいっそう狼狽させた。
植物と離れて歳を重ねるごとに独り言も随分と減ったはずだが、父の中で将志の印象は、一人で急に笑い出す癖のある奇妙な少年というところで固まってしまっているに違いなかった。今の将志も、その延長にあるものとして映っているのだ。その自覚が呼び起こす羞恥と怒りを、将志は必死で堪えた。
即座に腰を上げて逃げ出したかったが、それは逆効果である。何も父は深く問い詰める気はなく、ただ目についたことを指摘したまで。過剰に反応を示して余計な注意を引くことはない。話を逸らすべく、将志は努めて虚勢を張った。
「僕の気が触れているとでもお思いで? だとしたら、それはこいつのせいですよ」
葉巻を長い指に挟んで見せつけ、ふっと煙を吐いた口元に軽快で人懐っこい笑みを張りつける。
「その葉巻は」
「兄上からの土産ですよ」
「ほう。吸うのだな」
気に食わない言い方だ。父の言葉の裏にはおそらく、「おまえは貴志のことを嫌っていると思っていたのだが、貴志からの土産を吸うのだな」という意味が含まれている。父は将志が兄に劣等感を抱いて嫉妬しているとでも考えているのだろうが、生憎、そんな殊勝さなど持ち合わせていないので、「はい、嫌いじゃありませんからね」と、対象が葉巻なのか貴志なのかわからぬ曖昧な返事をしてやった。
「貴志は元気そうか」
「ええ、先日の手紙を見る限りは、変わりなく」
「そうか」
兄の話題など楽しくもなんともないが、話が逸れたことに一応安堵していると、父は「その葉巻、一本貰えるか」と手を出した。
話は逸れたものの、なかなか立ち去らない父に、将志は緊張しはじめていた。
将志は一本の葉巻と、続いて火を差し出した。
「――将志よ。この葉巻はどこから来たと思う」
先端を少し吸ったところで、父は将志に問うた。
「兄上からの土産だと先程申し上げましたが」
「そうではない。この中に詰まった葉は、どこで栽培されたものかという意味だ。あるいはこう言ってもいい。葉巻という嗜好品それ自体が、この形この場所に至った経緯は如何様か」
うまく答えることは難しかったが、漠然と、父が「近代化」の話をしたがっていることは察しがついた。貿易や戦争の話である。
将志にはひどく滑稽に思われた。二人は、普段はほとんど会話のない親子である。息子が弱っている時にそんな講義を垂れるのが父親か。これが息子への気遣いとも思えぬが、こんなふうに構ってくれなくとも、将志は父らしくない侯爵のことなどもはや恨んでもいないというのに。
「新大陸でとれたものです。新たに獲得した土地で生産し、それを欧州に運び入れます」
数世紀前、航海技術が発展した西欧諸国は、新天地を目指して大海原に乗り出した。国に後押しされた大冒険である。
そこに端を発する植民地政策も、今となっては外交や産業の重要基盤である。植民地の開拓および運営は、文明国の証であり使命となった。
侯爵は、将志を見てはいなかった。二人を取り巻く紫煙のもやの向こうを見透かすような、遠い目をしていた。
将志は「なぜ唐突にこんなことを訊ねるのか」と茶化してしまいたかったが、そうできない空気を悟って押し黙った。
「煙草栽培は砂糖と同様、早い時期に、奴隷を運んで意図的に貿易経路を開発した産業だ。文明を持たぬ国で、組織や市場を作って、その土地を啓蒙する。一連の統治を成し遂げることによって、そこには秩序が生まれる。統治する側の国家は使命を果たして利益を得る。この権利と義務を持つのが、文明国だ。葉巻をつくる者と、これを売って利益を得る者の間には、歴然たる差がある」
煙草栽培は文明諸国の戦略を凝縮したよい例というわけである。
やれやれと内心うんざりしながらも、将志は以前兄から聞かされた話を思い出しつつ話を合わせる。
「法や産業を整備して、文明国と対等に渡り合うことが我が国のここ数十年の課題というわけでしょう。条約を改正して、海外拠点を作ることが」
文明がないと、取り込まれるだけだ。そうではなく、取り込む側にならなければならない。憲法や議会や軍隊がなぜ必要か。条約改正や国際会議に向けて担当官がどれほど神経をすり減らしているか。なぜ若者を西洋に、軍人を台湾や朝鮮半島に送り込むか。そのすべては、近代化という国是に結びついている。
「この国が、なぜ清に勝てたと思う」
「近代化に努め、国力をつけたから……でしょうか」
試験をされているような気になってきた将志は、居心地の悪さを感じて、控えめに答えた。
先の清国との戦争が今までのどの戦いとも違ったことは認識している。攘夷戦争や、維新後に持ち上がった対清開戦論の動きとも異なる。
ずっと準備をしてきたのだ、この国は。国際社会に認められ、極東の中心に立つ文明国となるために。
「では、開国からまだ三十年余りしか経っていないのに、こうも大きく変われたのはなぜだと思う」
「開国を呑んだのは、国を守るためではないのですか。開国して西欧の流儀を身につけるしか、この国が独立を保つことはできないから」
「それだけだと思うか。この国は追いつめられて、ただこうなったと」
明治初頭には、都市部から農村部まで、大なり小なり仕組みが新しくなったことに伴っていくらかの動揺が見えた。しかしそれも今では落ち着きを見せ、とりわけ清国との戦争を経て、国全体が新しい世を刻みはじめたように思われる。維新後に急速に取り入れられたあらゆるものに、染まってきているようなのである。慣れてきた部分もあれば、やや浮かれている部分も感じられる。何にせよ、民は時世に沿って生活を営んでおり、つまりはこの時世を受け入れているのである。
「国の指導者は、追いつめられて苦し紛れに舵を取っただけではなかろうと思う。望んでこうなったのではなかろうか。抗う道ではなく、受け入れて変わる道を選んだのは、対抗しても負けることを悟っていたからというだけではない。国際社会のなかで重要な一部になることを望んで、変わろうとした。積極的に。そうでなければ変われまい。この国は望んで動き出したのだ」
清国との対戦はその証明と将来評価されるだろう、と侯爵は付け足した。将志に考える時間を与えるかのように、葉巻を味わうようにゆったりと吸う。
「望んで、変わる……」
――文明は受け入れるものではなく築くものである。
兄の貴志は、西欧に遊学する前から、この国の人々が自ら学ぶことを説いていた。聞かされた当時の将志には意味がよく飲み込めなかったけれども、なるほど、侯爵を前にした今は、気づかされるものがあった。
ただ真似るのではなく、受容し学んだものを血肉とし、自ら動かしていくこと。その理念には「望んで変わる」という侯爵の表現と相通ずるものが感じられる。




