◆美枝子
知りたくなかった気持ちと、もっと早く知りたかった気持ちとがせめぎ合っていた。
この瞬間を味わいたくなくて、自分は無意識に考えることを避けてきたのかもしれないと将志は思った。
植物の声を聴く彼女がこれまで身を置いてきた場所は、揺れる世情や俗人の営みとは相容れぬ、外から閉じた処。かつて将志も魅了され、そして決別した世界である。そのような世界に居場所をもつのがどういうことか、将志は己の経験を通じて嫌というほど知っていた。そのくせ将志は、美枝子の中に己と同種の醜さを見出そうとはしなかった。美枝子がどうして植物の声を聴けるのか、それすらも考えてこなかったのは、彼女の孤独の深淵を覗かないようにしていたためだ。己の内なる化物を見ないようにするのと同じように、植物に惹かれる美枝子の核心から目を逸らしていた。
美枝子の本性を知らぬ己を自覚し、それでもなお知ることを避けてきたということなのだと、認めたくないが認めざるを得ない。草木の声を聴けないことのせいにして、本当の美枝子をわかろうとすることから逃げていたのだ。
自分の孤独を認められず、他人を真に見ようともしない自分の、なんと卑怯で臆病で、薄情なことか。自分が庭師に語った、美枝子を理解したいという思いの、なんと稚拙で甘かったことか。傲慢で、浅はかだったことか。
将志は、無意識のうちに冷たい掌で自ら目元を覆っていた。美枝子と目を合わせることができなかった。
「桜が今年になって異変を見せはじめたのは、あなたが私に結婚を申し込んだからだと思います。私が将志さんを受け入れたら、桜との約束を破ってしまうことになるもの。桜は、私が約束を違えることを恐れて暴れ出したのだわ。あなたは桜にとって、約束を脅かす存在なの。だからお願いよ、もう近づかないで。あなたを巻き込んでごめんなさい」
言い終わるや否や、美枝子は座敷を出ていこうと腰をあげた。その気配に、ようやく声が出た。
「ま、待ってくれ」
慌てて縦縞模様の着物を呼び止めるも、その背中は振り返らない。
将志は咄嗟に立ち上がる。するとその途端に視界が翳った。立ち眩み、布団に倒れ込む。体は思いのほか憔悴しており、急な動きに耐えられなかったらしい。
眩暈が止んで視界が戻ると、今度はいくらか慎重に身を起こして座敷を出た。よろよろと壁に手をつきながら、無理を承知で、走る真似事のような走りで玄関を目指す。美枝子の姿はすでに廊下にはなかった。
今彼女を引きとめなれば、今度こそ手遅れになってしまう。諦めなければならなくなるだろう。直感が強くそう訴えていた。
将志から逃げていこうとする美枝子。将志がこれまで目を背けてきた美枝子。本当は、彼女が将志を見限って姿を消してしまうのも当然なのかもしれぬ。けれども、この一瞬で裁きが下ってしまったら最後、これまで二人の間に交わされてきたすべてが嘘になってしまう気がした。それがどうしても許せなかった。
何か言わなければ、彼女に、訴えなければ。何かを。本当のことを。
裸足のまま玄関扉を飛び出したところで彼女を見つけた。石畳の先で、美枝子は門の前にとめた馬車に乗り込もうとしていた。
「――美枝子さん!」
御者を押しのけ、馬車の扉にかかった美枝子の手を掴んだ。彼女を体ごと馬車から引きはがして振り向かせる。
強い力で引き寄せられて体勢を崩した美枝子は、将志の手を振りほどこうと暴れた。
「離して! お願いです、もう、私……」
「本当に桜のもとへ行くのか」
「今すぐにじゃないわ」
「そうだとしても待ってくれ。行くことができると本気で思っているのか。行ってもいいと、きみは、本気で……」
「行かなければならないわ」
感情を抑え込んだような、震えているけれどもまともで落ち着いた声に遮られ、突然の沈黙が生まれた。吐く息の音がうるさく感じられるほどに、しんとなる。
掴んだままでいた美枝子の手がいつの間にか白くなっているのに気づいて、将志はそっと美枝子の手を離した。気づかぬうちに、手に力を込めすぎていたようだ。
「もっと早く、あなたに本当のことを言えばよかったのだわ、桜や私のことについて。ごめんなさい。そうすれば、あなたを巻き込むこともなかったのに」
自分は何度謝られるのだろうと、将志は思った。将志の求婚を拒んだ時からずっと、彼女は「ごめんなさい」と、そればかり。悔やみ、傷ついた顔をして。
「でもきみは言わなかった。誰を愛することもできないと、きみは今の今まで僕に打ち明けられなかった。それは、僕に嫌われることを恐れたからじゃないのか」
本当のことをわかってほしいという期待の裏には、本当のことを知られれば軽蔑されるかもしれないという恐れが常に付きまとう。だからこそ樹と話をすることは二人に共通の秘密になり、将志はそれでもなお打ち明けることのできない己の醜さを隠し持っていた。美枝子が、孤独ゆえに桜と交わした約束を黙っていたことも、同じ気持ちからではないのか。
この期に及んで、将志は自分の中に美枝子との共通点を必死に探っていた。なんとかして美枝子を引きとめようとする心がそうさせていた。
「あなたに嫌われるより恐ろしいことがあるわ。理解者を失うことです」
「何を馬鹿な。失わせるものか。僕はそのつもりできみと……」
「――無理よ!」
聞いたこともない悲痛な叫びに遮られ、将志は不覚にも一瞬ひるんでしまった。呆然とする将志に、追って言葉が突き刺さる。
「あなたに何がわかるというの。あなたに会って私がどんな気でいたか、あなたにはわからないでしょうね。あなたに会って、私の世界がどれほど揺らいだか! 会ったことのない殿方といつか結婚させられることよりも、本当は、あなたと親しくなることの方が怖かった。どうしてわかってくださらないの、私があなたを断るのは……」
美枝子は最後まで言い切らないうちに将志を視界から追い出すように顔を背けると、素早く馬車に乗り込んで去ってしまった。
将志の頭から思考が消し飛んでしまっている間のことで、将志はもう一度手を掴むことはおろか、声の一つも出なかった。
美枝子を乗せた馬車が公道の木立の向こうに消えてしまった後も、ただ門の前に立ち尽くしていた。しばらくして将志を見つけた世話係のつる婆が「まあ、何をなさってるんです、履物もお召しにならないで!」と喚きだすまで、その場から動けなかった。




