◆夜桜の夢は醒め
将志が目を覚ますと、その枕元には美枝子がいた。
「……美枝子さん、なぜ」
なぜここにと尋ねようとして、それ以前にここはどこだろうと引っかかる。自分の部屋ではないがよく知った天井を見て、西宮邸の座敷だとわかる。
あの桜に会いに行ったことは確かだ。そしてその後どうなったのか。記憶が途切れている。どうして自分の家の座敷に寝ているのだろうと意識を巡らせたが、すぐに思い出せない。
昨日の袴と袷を着たままだった。羽織はきれいに干されてあった。
「よかった、目を覚ましたのね」
美枝子の声は濡れて、ぼやけていた。将志の意識が覚醒しきっていないがために朧がかっているわけではなかった。
「なんだ。……泣いているのか」
将志は上体を起こし、半ばからかうように美枝子の顔を覗き込んだ。目覚めたばかりの将志の方がむしろ、妙に落ち着いた気分だった。彼女の赤くなった目元に、出まかせに訊ねる。
「きみはおかしな人だね。振った男のことがそんなに心配かい?」
「ば、馬鹿なことをおっしゃらないで!」
美枝子がぱっと顔をそむけた拍子に、あふれた涙の粒が宙に散った。
将志は彼女の頬にそっと手を伸ばす。涙のせいで引っかかった髪を払ってやる。
「おいで」
将志は彼女の頭を抱き寄せた。彼女はおとなしく将志の腕の中におさまった。
「……ごめんなさい」
「何のこと?」
「あなたを、困らせたわ」
将志が伯爵邸の庭で倒れたこと、それを聞きつけこの屋敷を訪ねてきたことなどを、美枝子はまとまらない言葉で訴えた。将志を西宮邸まで運んでくれたのは、伯爵家の使用人らしかった。将志が運び込まれた時、屋敷は一時大わらわだったそうである。
美枝子は狼狽えていた。時折しゃくりあげながら、涙をのみ込んで言葉を吐き出した。その言葉は半ば脈絡がなかったが、将志はただ美枝子を落ち着かせようと頷きを返していた。
「大丈夫だ、僕はなんともない。平気だよ」
美枝子の背中を柔い力で叩きながら、美しい黒髪に囁く。
「きみに泣かれる方がよっぽど困る。……でも、いいんだ。泣いていいよ。僕のことは、困らせてくれていい」
美枝子は自分の顔を覆っていた手をはがすと、そろそろと将志の背に腕をまわした。
震える細腕に、どうしてこうも安堵するのか。
将志を拒んでいたのが嘘のように感じられた。美枝子は将志のことを心配して将志が目を覚ますのを待っていたのだ。将志のために泣いているのだと実感させられる。
いつまでもこうしていたいという怠惰な欲求が顔を出す。呆れるほど馬鹿な気の迷いが、ひどく価値あるものに見えてくる。泣かれてもいい、美枝子になら。
しかし、将志がそう思っていられたのは束の間のことだった。美枝子はすぐに将志の腕を逃れ、体を離した。将志の背を抱いた腕をこわばらせて、膝で一歩下がってから座りなおした。
「ごめんなさい、私……」
「きみはさっきから謝ってばかりだな。僕を困らせたというのは、何のことだい」
「あなたが倒れたのは、私のせいなの」
「きみのせいだって?」
「そうよ」
確信をもった口ぶりで、美枝子は問うた。
「将志さん、桜に会ったのね」
将志は軽く顎を引いて肯定した。
すると美枝子は傷ついたように、「やっぱり、そうなのね」と力なく呟いた。
「お願いです、どうか近寄らないで。あの樹にも私にも。でなければ、将志さんが危ない目に」
「危ない? それは一体どういう……」
美枝子の方に手を伸ばそうとすると、彼女はそれを遮るように声をきつくした。
「倒れたじゃありませんか」
誤解だ。どうやら美枝子は、将志が倒れたのは桜に何か危害を加えられたせいだと思っているらしい。
将志はすぐに否定した。
東京に戻ってくるまでのほんの一時、確かに将志もあの桜を疑った。美枝子を危険な目に合わせるかもしれないと懸念した。だがしかし、それは違ったのだ。
桜は将志の問いかけに、心を開いてくれた。将志の中に流れ込んできたのは、悪意などではなかった。
桜が将志に見せた幻は、過去の須藤屋敷と思われる。おそらく桜は、将志に記憶を見せたのだ。将志が気を失ったのは、桜に危害を加えられてのことではない。
「美枝子さん。大丈夫だ、あの桜は危なくない。なんともないよ」
「なんともないですって?」
「ああ」
気を失っている間に見た幻のことを話そうにもうまくまとまらず、将志が言い出せないでいるうちに、美枝子に話を運ばれてしまう。
「将志さん、あなたも気がついたのでしょう、桜が地面に沈んでいること。花の色も紅くなって、いつまでも花が咲いては散り続けているわ」
「その通りだ。きみは僕よりも先に気づいていたはずだよ。どうして何も言わなかったんだい」
「言えるわけ、ないわ」
「だからどうして。僕はきみの話を信じるし、理解する」
少なくとも、理解しようとする。おそらく須藤邸を訪れる誰も、桜の異変には気づかないだろう。異変を訴えたところで通じまい。だが将志は違う。美枝子と同じものを見ることができるし、そうしたいと思っている。彼女を信じる。植物としゃべることを、笑ったりしない。
「……だからよ。だからこそ駄目なの。桜はあなたが邪魔なのよ」
「僕が邪魔?」
「そうよ」
将志は自分が見た幻の話をするよりも、まずは美枝子の話を飲み込もうと考えたのだが、美枝子の言い分がまだ理解できなかった。美枝子はどうして、あの桜が将志にとって危険だと言い張るのか、合点がいかない。
「桜は、私を呼んでいるの」
美枝子は唇を噛んで、観念したように言った。
「私、小さい頃にあの桜と約束したの。ずっと一緒にいるって」
「きみは今でも変わらず一緒にいるじゃないか」
「違うの、そういうことじゃないの。大きくなって、殿方に心を移す年頃になったら、どこかの殿方のかわりに心をあげると約束したの。あの樹とずっと一緒にいるというのは、ずっと、誰のことも愛さないという意味よ」
言い合うごとに互いの声は大きくなっていたが、美枝子がそう言ったのを最後に、将志は口を噤んだ。すぐには言葉が出なかった。美枝子の言ったことを咀嚼するには時間を要した。
「……本気で言っているのか、きみは」
あの樹の下で、美枝子は将志の手を取ったではないか。僕のことを考えてみてくれと申し出た将志にこたえてくれたではないか。
将志に与えられた真実はあまりにも無情で殺伐としていた。今まで二人で過ごした時間を否定されたような気がした。どころか、将志の知る美枝子が、美枝子本人によって否定されたようにすら感じられた。
「誰か男の人を好きになる自信がなかったの、私。当たり前の、普通のことをするのが怖かった。だから、桜とこの契りを交わしたのは本気でした。人の世で殿方に与えるべき魂を、本当に捧げる気でいたわ」
将志がこれまで考えてもみなかった美枝子の姿が、現れようとしていた。それはとても惨めで、孤独で、頼りない姿であった。知性や愛嬌は身をひそめ、怯えと、不安と、退廃の気を帯びている。
彼女は、本気で桜に魂を捧げる気だったと述べた。愛さないと約束できたのは、愛せなかったからに他ならない。彼女は草木の声のない世界で、誰のことも愛する自信がなかった。
十代の将志が外の世界に行きずりの快楽を求めたのと同様に、彼女もまた、外の世界に最上の価値を見出すことはできなかったのだ。変わりゆく時世に生きる人々と同じに世間を受け入れることができない。樹のそばを離れて新しい外の世界に自分のすべてを投じることを、何よりも恐れた。
――私は失いたくない。
あの言葉の裏にあったのは、彼女の気高さや自律心だけではなかったのだ。それを自分はこれまで、考えたことがあっただろうか。彼女の中に巣食う、自分と同じような負の心が、どれほど深いことか――。
ようやく今、そこに触れようとしている予感があった。
「私は、分別のあるふりをしていただけなの、あなたの前でも。屋敷の外の世界で真っ当に生きていく自信なんてなかった。だから……」
まさかと思いながらも、口に出すことを躊躇う余裕はなかった。
「桜に魂を捧げるというのは、桜の下で死にたいという意味か」
「ええ、そうよ」




