◆春の夜の夢
目に飛び込んでくる現実の風景でも、瞼の裏に映る想像でもなく、将志の意識を奪い取るように流れ込む景色があった。
それは将志の中に割り入ってくるというよりは、将志をすっかり覆い尽くしてしまうほど大きなもので、その中に将志の方が沈め込まれていくようだった。自己の輪郭がぼやけてあたりに溶け込むのを、為されるがまま委ねる。宙にでも浮いているような、不思議な心地に包まれていく。
夜だった。
ほのかな光源は、朧にかすむ月と、小さな石灯籠。どこかの屋敷の庭先のようだ。石で囲った小さな池、美しく刈り込まれた垣根が、優美で凛とした武家の風格を感じさせる。
周囲に並ぶのは、悠然と咲き誇る桜の樹。ちょうど満開を迎えたその姿は見事としか言いようがない。薄紅の花弁がひんやりとした風に舞い、月や灯篭の光に当てられるたび、その身は透き通ってちらちらと輝く。
目を向けたところから順に石灯籠の明りがひとりでに灯るように、夜闇の中に細部が浮かび上がり、不思議な幻はだんだんと明瞭になっていく。
降りゆく花弁の向こうに、家屋を認めた。立派な柱に瓦葺の屋根、庭に向いた空間は縁側のようである。そこには人影がある。一人の人間がこちらを向いて腰かけている。
若い女である。まだかすかに少女の面影を残した、若く美しい女。夜着の上に唐紅の着物を重ねている。艶やかな黒髪が衣をつたって床に流れ、盃を持つ手は内側から光っているのかと見紛うほど白い。その優美な姿形が、女の高貴な身分を窺わせる。
ふと、風の中に甘美な香りが混じる。口の広い盃から流れ出る酒の匂いが、桜の香と絡み合う。
女の手元の盃には、桜の花弁が浮かんでいる。
幻のせいか、目視できるはずのない細やかな様子までもが勝手に補われている。
――……助、弥助。
光と香りだけの空間に、音が生まれた。透き通った女の声である。縁側の女だ、誰かが彼女に呼ばれている。
その時、懐かしさにも似た、深く熱い愛しさが込みあげてきた。周囲に見える風景のすべてが仄かな明かりに統一され、まるで一つの絵画のようにまとまった。
心を奪うこの原風景を知っている、今この中にいる。それは、誰なのか。
その者が応えた。
「――姫様」
庭先に、着流し姿の男が一人佇んでいた。はじめからそこにいたようにも思われるその男は、桜を背に立っており、表情を窺うことはできない。だが背筋に棒をあてたような剛健な立ち姿は武道を修めるもののそれである。
見目より強く訴えかけてくるこの男の何かが、この場を支配している。充満しているのは、この男、弥助の思念か。この愛しさ、息苦しいほどの熱情は、彼から流れ込んでいるらしい。
「弥助、見て。桜が綺麗ね」
「はい、左様で」
酒の甘い香りに、明るい朧月、光に透ける薄紅の桜。
酔いを誘う幻想的な夜に、二人の男女は互いを見つめ、しばし沈黙した。かち合った視線を伝って、秘めた心が行き来する。
「桜はやはり、夜桜が一等美しいわ。おまえもこっちに来てご覧なさい。ほら、盃を」
男は一礼してから縁側に浅く腰掛ける。
「もう、そんなに固くならなくともよいのよ。おまえは歳を重ねるごとに他人行儀になりますね」
女は無邪気な笑みを浮かべ、男の方にわずかに姿勢を崩した。
「おまえは私の幼馴染です。共にこの屋敷で育ち、ずっと一緒にいた」
「共にあるのは当然にございます。この弥助は、姫様の護衛を仰せつかっておりますゆえ」
「そうね」
伏せた目元に影が落ち、姫の顔から表情が消えた。
「――なんて、不自由なこと。こうしておまえと語らうことさえ、本当は許されていないなんて。小さい頃とは、何もかも変わったわ。今は一緒にいても、あの頃とは全然違う。……おまえは、窮屈に感じることはない? あの頃のようにと、望んだことは?」
酒が強く香った。酒の匂いだけではない、女の匂い。鬢付け油と肌の甘い匂いがぐっと近づいた。
姫の方から、手が伸びた。
弥助はその手を拒むようにやんわりと止めながら言った。声はかすれていた。
「どうして、そのようなことが望めましょう。……貴方は婿殿を迎えられるのに」
紅をのせた小さな唇に、弥助の囁きは柔らかく封じられた。
弥助は合わせられた口を吸った。姫の耳元に軽く手を添えたが、それは彼女を引き離すためだったのか、それともより引き寄せるためだったのか、もうわからなくなっていた。
触れた身体の温かさに、心が逆上せる。彼はこの温かさを既に知っていた。よりにもよって、この女性からは知ってはならぬ温もりだった。
ふと面が離れたわずかな間、姫の目が桜を映した。
「私、死ぬなら今がいいわ。桜の美しい季節。おまえの傍で」
束の間の囁きも、すぐに互いの吐息の狭間に消えてしまった。口先から行き来する熱に、意識が奪われていく。
理性には手出しのできぬ己のどこか奥深くで、深紅の炎が燻っている。時に薄ら暗く妖しげに揺らめき、時に闇を払う清らかな眩しさを放つ。その色と光は生き物の如く蠢き、弥助の何処かへ導く。その心酔と熱情に身を委ねてしまえたらどんなによいか、そう思って苦しんだのは一度や二度ではない。
この場に立ち込める弥助という男の思念に、幻は絶えず揺らいだ。
花と、湿った土の匂いがしている。せっかく美しく咲いた桜は、時を急かすように花を散らす。
風に翻る花弁が、幻夢をさらっていく。
重なった男女の影は同じなのに、その二つの影が離れた時に再び覗いた各々の容貌は、はじめといくらか違っていた。歳をとったように見える。
いつの間にか酒の匂いも消えていた。
桜は変わらずに花開き、紅色の花弁が雪のように舞っている。月は欠け、庭先はわずかに翳りが濃くなったようである。
「――いけません、奥方様。お体に障ります」
奥方様と呼ばれた女は、先程の美しい姫君であった。
歳を重ね、女の盛りと思しき年齢となった美しい女人は、落ち着きと気品を湛えている。
「大丈夫。今日は、いつもより具合がよいのです」
「ですが」
奥方の、透けるように白い肌は眩しいほど。その美しさの陰に見え隠れするのは、日の光を浴びていない者に特有の脆さと不健全さ。命の衰えるにはまだ年若いようだが、その弱った姿は見るに痛ましく、花芯を離れた花弁のように心許ない。
弥助は抱きしめた体の細さに慄きつつ、余る腕をそれでも巻きつけるように女を抱きしめる。連れ添う二つの影は、今一度、互いを飲み込むように溶け合って一つになる。
「弥助。見て、桜が綺麗ね」
そう言う彼女は弥助の胸に頭を預け、目を閉じたまま微笑む。桜など、見てはいなかった。
「憶えている? この屋敷を出る前のこと。人目を忍んで、一緒に月を見たこと」
「はい」
「私は秋の名月よりも、春の朧月が好きでした。今宵のように、夜桜が一等美しくて」
移ろいゆく時の流れの中で、桜だけが、まったく変わらぬ姿をしていた。
「一番楽しかったのは、ずっと昔。おまえと気兼ねなく一緒にいられた、子どもの頃。あの頃が一番楽しかった。おまえはいつも私を笑わせてくれました」
弥助の頬を、冷たい手の甲が撫でた。
「死にたかった。おまえと一緒に花や月を見る夜に、そう思った。一番つらい瞬間ではなく、束の間の安らかな時に、そう思ったのです。このまま死にたい、おまえの傍で。夜が明けるくらいなら、死んでもいい。この世は理不尽で憎かった、とても。生き延びて何になるかしら、その価値はあるかしらと、そればかり考えていたわ」
弥助は何も言わず、もう先の長くない女を強く抱いている。
桜が散る。朧月の光に透ける花弁が、樹の根本に降り積もる。
花と土の匂いがする。死に繋がる、未だ見ぬ太平の極楽を呼びそうな安らぎの匂い。心のどこかが惹かれてしまう、死に場所にふさわしい安寧と清浄の空気。
かつて弥助の腕の中で死にたいと言った姫君は、桜に何を見たのか。現世への絶望か、結ばれぬ想い人か、ままならぬ身の上か。
どれでもよい、桜はそのすべてを受け入れる。変わらず花を咲かせ、共にあり続ける。永遠にも思える長い年月を背負って。
でも、と続ける姫の面差しには、安らかな色が見えた。
「でも、何も捨てられなかった。死ねなかった。私はここに生まれてきたのだもの。死にたくない、生きていたい。死ねるはずがありません。この世には、美しいものや愛おしいものがありますもの。そのことに気づいてしまったら、死ぬことなどできない。どれほどつらく厳しい世に生まれようとも、人は美しいものを見抜いたり感じたりする力をもって生まれてくるものよ、きっとね。死ぬには美しすぎるものがある、こんな世の中にも。あったのよ、こんな私の人生にも」
「ならば生きて、ください、まだ……。そんな死に際みたいなことを、おっしゃってないで」
桜が降る間に、気がつけば二人の姿は見失われていた。
また時が過ぎたのか、桜の花はまだ美しく咲いたままである。
誰もいない縁側に、花弁が落ちる。それを受ける盃も人影も既にない。
弥助の思慕の念と哀しみが、残っていた。まるで桜に溶け合ったみたいに、桜を介して聴こえてくる。
死にたい、貴方が愛した桜の下で。
――桜の下で、もう一度、貴方に会いたい。
やがて、幻に一人の少女が現れ、桜に語りかける。
その時、突如として夜闇が払われ、眩しい昼の光が射し込んだ。その強烈な光に幻の中の色は消し飛び、音も匂いも同時に奪い去られた。
光を逃れるように、春の夜の幻は姿を消した。




