◆桜のもとへ
本邸にて三度目の夜が明けようとしている。
今日、将志は東京に戻る。いつものように、本邸の面々と顔を合わせるだけの短い帰郷だった。東京に戻って、今度は父を伺わなければならない。
少ない荷物をまとめ終えた将志は、朝露に光る草を踏みながら庭師の姿を探した。
庭の桜はもう散り始めていた。弱い風にもちらちらと花弁が降る。
東京の桜はそろそろ満開を迎えただろうか。そしてあの桜は、まだ狂ったような満開の状態でいるのだろうか。
考えながら、将志は早朝の庭に出る。三日前と同じ時間帯だが、春の庭は日々表情の違いが大きい。新しい花が咲き、色彩が増えている。
探すのはもちろん、庭師の姿である。あの老人が将志に示した問いに答えることはまだできない。樹は人を選ぶのか、なぜ聴くことができるのか。そして、どうして聴こえなくなったのか。明確な答えなどわからぬ。本当は将志には庭師にあわせる顔などないような気もする。けれども今、庭師に本心を偽りなく告げることが、自分にとって通らねばならぬ儀式のように思われた。
それに、将志には、確かめておきたいことがあった。あの桜のことで、気がかりな点に思い当ったのである。
あの桜はなぜ沈んだのか。将志に対する美枝子の態度と、何か関係があるのか。将志はずっとそこに違和感を抱いていた。
桜の大樹が沈むという現象はもちろん不可解だが、美枝子がそのことに触れようとしないことも不自然である。当の桜の下で将志と会ったというのに、美枝子は桜について何も言わなかった。美枝子が桜の沈んでいることに気づいていないわけはないにもかかわらずだ。
そして将志が求婚を最初に断られたのは、今年の春先、桜の蕾が膨らみはじめた時期である。それまで、美枝子に別れを告げられるようなことなどなかったし、そのような素振りもなかった。周囲にも認められた二人の交際は順調だった。実質的に二人の将来は約束されていたようなものだったのだ。それを美枝子は唐突に翻した。理由は頑なに伏せたまま。
なんにせよ、美枝子はあの桜のことと求婚を拒絶した訳と、その両方に口を噤んでいることになる。何か関係があると見てもそうそう的外れではなかろうというのが、将志の見立てだ。
しかし、桜が沈んだり色の濃い花を咲かせたりといった一連の怪現象は、もとより将志の手に余る。すぐには気がつきもしなかったくらいである。桜が地中に沈むなどとは聞いたこともない。他の桜がまだ十分に花開かないうちから大量に花弁を落とし続けるのもひたすら不気味である。
そもそもあの桜は、異変が起こる前から他の桜と違っていた。並木のはずれにある、一つだけ背の高い桜の樹。庭師が若かりし頃に須藤邸を訪れたときから、周囲の桜より抜きんでていたという。その頃はまだ、今のような桜並木は造られておらず、桜が無造作に立ち並ぶ、屋敷に隣接した庭だった。
これがどうにも、腑に落ちない。聞いたとき、とても意外に思ったのである。桜並木ができた経緯は、もっと違うものを想像していた。後から桜を植えることによって造られたと思っていた。はじめからあった桜を残すことで造られたのではなく。
そのように想像していたのは、他でもない、美枝子からそう聞いていたからだ。
――あちらの並木は、この桜と同じ種類を後から植えて造られたそうですわ。
聞いたのは確か、彼女とはじめて言葉を交わした日。美枝子に聞いたから、将志はあの桜並木の桜は小道を造るときにそれに合わせて植えられたものと漠然と思い込んでいた。けれど違う。よく考えてみればわかる、並木の桜は、そんなに若い桜ではない。
そして、そう誤解していたからこそ、あの桜が他の桜よりも大きいのは、あの桜が他よりも古いからだと思っていた。果たして、それは真だろうか。同じ種類の桜を後から植えたのではなく、かつては屋敷に面した庭として、何本もの同じ種の桜が並んでいた。そう考えると、あの桜一本だけが古いというのも不自然ではないか。あの桜は本当に、他の桜より古いのか? 大きくなったのには、何か、別の理由があるのではないか?
将志は思考に一旦区切りをつける。
前方に、痩せて曲がった背中を見つけた。膝を折り、背の低い地蔵でも拝んでいるようなその姿。見なくてもわかる、慈悲深い目の表情。
将志は近づく。出立の今日、地を踏むのは下駄ではなく革靴だ。朝露で湿った草の葉がこすれて、きゅっと音を立てる。
「やあ。これから東京に戻るよ」
世話になったな、と相手が振り返りもしないうちにそこまで言いきる。
それから一拍おいて続ける。庭師と目が合った。
「あの桜に会いに行くつもりだ」
庭師は何も言わずに頷いた。
「そのために、訊いておきたいことがある」
「はい」
「本当なのかい、その、死体を喰った桜は成長が早まるというのは」
将志は恐る恐る尋ねた。
あの桜は、沈んだこと以前に、「大きい」ということ自体がおかしいのではないか。「古い」のとは別に、何か理由があるのではないか。それを疑ったとき、将志の頭をよぎったのは、美枝子の口から聞いた「墓標」という言葉だった。死と桜を結びつける、不吉な言葉。
桜は死を象徴する。墓地に立つ桜は大きく育つ。死者の眠る地の桜は、樹の成長がはやい――それが迷信じゃなかったら。あの桜が他よりも大きいのは、他よりも古いからじゃなくて、人を喰ったからだとしたら。美枝子の言った「墓標」というのは、文字通り、桜の樹の下に死者が眠っているという意味ではないのか。
つまらぬ憶測なら、それに越したことはないと思っていた。
ところが庭師は言いにくそうに言葉尻をすぼめながらこう答えた。
「そういう桜も、ないわけではございません。伯爵さまの庭の桜も、あるいは……」
仮にあの桜が死体を喰ったがために他の桜よりも大きく成長したのだとしたら、将志にはその先の想像があった。
沈む巨体、紅く染まった花弁は、どう説明をつけられるか、それを考えていた。「助けて」という呼びかけの意味を、知りたかった。
将志は、あの声が本当に桜自身の声だったのかどうか疑っていた。将志は樹の声を聴けないはずだったためである。
もしもあれが、何か桜とは別のものの声だったら。助けを求めているのが、桜自身ではないとしたら。桜は人を惑わせ、死を招く。人を喰う。桜の樹の下には死体が埋まっている。その死体が、桜に喰われた者の名残――魂と呼ぶのか霊と呼ぶのかわからないけれども――が、助けを求めた。桜に何かが起こっているのではなく、桜が何かをしようとしているのだとしたら――まさかとは思うが、美枝子が危ない。
馬鹿な、と想像を打ち消す。将志はこのような推論を信じているわけではなかった。求婚を拒まれた帰りに見た桜の姿があまりに幻めいて強烈だったために抱いた妄想だと思っている。
「美枝子さんは、あの桜のことを墓標だと言ったことがある。だからもしかしたらと思っただけだ」
あの桜のことを、不吉だとか危険だとかいうふうには考えたくなかった。あれは美枝子が幼い頃から親しんだ大切な樹だ。美枝子を危険にさらすはずがない。
「桜に、会いに行かれるんですね」
「ああ」
「もう、声が聴こえなくとも――ですか」
その問いを受けて、やはり将志が臆しても今となっては仕様のないことなのだろうと悟る。将志は目を伏せて頷いた。
「そうだよ」
この男はすべてをわかっていて、ありのまま受け止めている。彼はこの庭の植物のようにこの庭に根を張って、どこへも行かない。ひっそりと動かず、静かに息をしている。去る者を追うこともせず。将志を、引きとめることもせず。将志が裏庭から遠ざかったこと、樹の声を聴けなくなったこと、その経緯に心当たりがあるはずだ。もしかすると将志本人よりも明確に。昔から、この庭師には将志の考えていることがすべて透けているような気持ちにさせられるのだ。将志自身にも知覚できない本当のことが、目に見えない何かを介してそのまま流れ込んでいるような気がする。まるで、草や樹を相手にするみたいにして。
「会いに行くよ。僕にできることは何もないのかもしれない。だけどね、僕は助けてと呼ばれたんだ。必要とされていると思いたい」
あの声が桜の声だとすると、あの桜は厳密には「助けて、美枝子」と言った。呼ばれているのは自分ではないのかもしれない。
けれど、その声を聴いた自分にできることは本当に何もないのだろうか。
何の声にしろ、将志は聴いてしまった。声を聴くということは、関わるということだ。その相手のことがよくわからないのならば、わかりたい。知りに行かなければ。
「美枝子さんと同じになりたくて力を取り戻したかったわけじゃない。そうだと勘違いしていたことはあるかもしれないが、今は違う。聴きたいのは、わかりたいからだよ。わかりたい、自分の自尊心のためじゃなく」
美枝子と、彼女の桜。彼らに関わるために知りたいし、聴きたいと思う。ずっとそう思っていたのに、気づかなかった。美枝子を愛しいと思うのは、彼女をわかりたいと思ったからなのだ。そして愛しいからこそ、わかりたい。
庭師は一度、ゆっくりと目を閉じ、そして開いた。年老いて濁った目が語るすべてはまだ将志には深すぎて届かない。痴呆などとは誰にも言わせぬと、当人の代わりにそう憤りたくなるほど。この男は実に多くのことを知り、感じとっている。そして、赦している。
否定したくない、失いたくない。将志は今、美枝子と同じ気持ちで、庭師に対峙している。
美枝子に会い、美枝子の中に自分の心を映して見るまで、ずっと認められなかった。虚栄心や自尊心に目をそむけることに必死で、自分が本当に大事に思うものの価値に気づかなかった。美枝子が自分を認めてくれたから、わかったのだ。自分がかつてこの庭師と世界を共有し、大事なものを与えてもらったこと。自分の醜い心のために、自分の得た美点のすべてが失われてしまうわけではない。紛れていただけで、自分はちゃんと得ていた。
「きっと大丈夫です」
庭師は将志を励ますように微笑んだ。
「お坊ちゃん。あなたは、昔から利口で優しい子でした。今でも」
「おいおい、僕は利口とはよく言われたが、優しいとはあまり言われたことがないよ。むしろ僕は薄情さ」
本気混じりに冗談で返したが、庭師は首を振るとおもむろに続けた。
「ここに来てくだすったじゃありませんか」
「それがどうした」
「ここに来て、あっしの言葉を聴き、考えたでしょう。あっしの問いに答えようとなさった」
確かに将志は、三日前に庭師に問いかけられたことがきっかけで、聴く力について考えた。そして、その答えの一部を伝えておきたくて、今朝、もう一度ここを訪れた。
しかし、それが何だと言うのだろう。
庭師の言わんとするところが察せられず、将志は無愛想な生返事しかできなかった。
まもなく馬車の用意ができたと御者が将志を探しに来たので、通り一遍の挨拶を交わしただけで将志は屋敷をあとにした。
東京に戻ってから美枝子に宛てて文を寄越したが、都合をつけることはできなかった。
伯爵家に訪問することはかなわないので、かわりに将志は須藤邸の桜のもとへ向かった。もうじきに日も落ちる刻限である。
小道に並び立つ桜は、いよいよ満開を迎えようとしている。
将志はほんの少し歩調を緩めた。花に顔を近づければ、その花弁の枚数も、中心の色の濃い部分の様子もよくわかる。同じつくりであること、けれどもそれぞれの表情が違うことを確かめる。
生命とはこういうもので、だからこそ通じ合おうとするのだと、とりとめもなく考える。個性なんてたいそうなものでなくともよいのだ、生きていると感じさせる姿がそこにあるだけで。
沈む桜のもとに辿り着くと、桜はやはり、並木のものよりも濃い紅色の花弁を狂ったように降らせていた。低い位置から、花弁が踊りながら地面を目指す。まるで樹が血を流しているように。自分に止められる血かどうかはわからぬ、それでも止めなければと将志は思った。
掌で、幹にそっと触れてみた。手の相を樹の肌に合せるように大きくひらいて押しつける。触れ合う部分が少しでも増えれば、何か伝わる力が強くなるとでも思っているかのように。
――こたえてくれ、桜。
おまえは知っているんだろう、僕の気持ちを。美枝子さんが認めてくれた僕の心すべて。
この樹の下で、多くの時を過ごした。庭師と同じようにすべてを悟っていることだろう。将志のすべて、美枝子に対する気持ちも醜い化物の正体も。
おまえが僕を呼んでくれたのではないのか。僕はおまえを救いたい。おまえの、美しい花が見たい。
「頼む」
声が、聴きたい。
風が吹いた。目も開けていられないほどに強く。将志は思わず目を閉じる。
桜の檻がひらき、将志の意識を解いた。




