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沈む桜  作者: 由佐
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12/23

◆心惹かれる人


 草木の声が消える一方で、周囲の雑音は大きさを増していった。将志は力を失って、世界が静かになったという気はしなかった。むしろ、喧騒の中に放り出された心地がしたくらいだ。

 その、声のない騒々しい世界に、美枝子は現れた。

 二人は、あの桜の樹の下で出逢った。美枝子はあの桜以外の植物を聴くこともできたが、専ら彼女の話し相手になる樹はあの桜のようだった。

 出逢った当初の将志に言わせてみれば、彼女は、将志が彼女の年齢の頃に失くしたものを未だ大事に持っている、世間知らずのお嬢さんだった。

 声が聴けることを素直に認めた彼女に対して興味を抱いたのは間違いない。けれどもそれと同時に将志の心に湧き上がってきたのは、後ろ暗い羨望と、かすかな疎ましさだった。樹と話ができるからといって、それを理由に彼女を愛するようになったわけではなかった。むしろ彼女は、将志がせっかく慣れてきた聴こえぬ生活を脅かしかねぬ存在であった。

 聴きたくない、聴く必要などない。将志はそう思っていた。にもかかわらず、桜に向けられる慈愛に満ちた彼女の目つき手つきが頭から離れなかった。自分が捨て去ろうとしたものの本性が見え隠れする度、将志の心は乱れた。

 大学への行き帰りに須藤邸の並木道を通るようになったのは、植物に惹かれたからか、彼女に惹かれたからか。小道の途中で歩調を緩めて、木々の隙間をのぞく。あの桜が立つ、小さな空間。人目を避けるようにひっそりと、自然の要塞の向こうに隠れたその場所は、どことなく播磨の実家にある例の裏庭を連想させた。一人で踏み込む勇気はなかったが、たまに彼女と出くわすと、桜の下で話をする。そんな気まぐれな逢瀬はいつしか習慣になり、約束になった。二人の関係も、気の合う友人へ、そしてやがてはかけがえのない恋人へと変わっていった。


「聴こえなくなったのはいつからなの」

 すでに友人として頻繁に顔を合わせるようになっていた頃、彼女にそう尋ねられたことがある。

 地面に張り出た桜の樹の根に座って、話をしていた時のことである。

 美枝子の問いかけに対し「わからない」と一度逃げたあとで、将志は播磨の本邸で過ごした少年時代の話をした。

「花や樹は、昔の友だちみたいなものだよ。忙しくなったり、環境が変わったりすると、自然と遠ざかる。疎遠になってしまって、何か噛み合わない」

 その口ぶりはまるで故郷の旧友のことを語るようだった。話しながら、将志は自分がまさにそのような感覚でいることに気がついた。遠く冷めた、穏やかな気持ちでいる。諦めにも似た懐かしさ。

 必要がなくなると(おの)ずから遠ざかってしまうのは、人も草も樹も同じなのだろう。会わずとも当たり前に過ぎゆく日常が、静かに記憶を薄めていく。互いに交わることもなく、日々が続いていく。気づけば、もう交わりようのない場所に来ているのだ。

「会ったり話したりする機会がなくなったから疎遠になる、というのは、なんだかよそよそしくて淋しい気もしますわ」

 はっきりとそう言ったあとで、美枝子は「けれど」と語気を弱めた。

「私もいつか、そうなるのかしら。学校を卒業して、結婚して、この家を出たら、私も聴こえなくなってしまうかもしれないわ」

 彼女は、今いる環境の外へ出て行くことを恐れていたのだろうと思う。

 須藤伯爵家の一人娘である彼女はおそらく、彼女自身わかっているように、女学校を出たらいくらも経たないうちに伯爵家に釣り合う名家の御曹司と結婚することになるだろう。草木の声を聴くことなど理解もできない男のもとへ、力も思い出も隠して嫁ぐのだ。そうなれば彼女もまた、聴こえぬ者たちの世界に飲み込まれ、桜の樹をおとなう機会は減り、樹の声を聴けなくなる。将志のように、この力を失ってしまうのだろうか。

「きみは結婚したくないのかい」

「そうではないの。結婚しないで皆に迷惑をかけたり、皆を悲しませたりするのは嫌だもの。自分の我が儘がどこで通用してどこで通用しないかは、わかっているつもりです。通用しない我が儘を言えば、私自身が不幸を見ることも」

 そして美枝子は顔をあげ、まっすぐ将志を見て言った。

「ただね、私は失いたくないわ」

 その目は意志の力に強くきらめき、将志を圧倒した。将志の目に飛び込んできそうな、あるいは将志の方が飲み込まれてしまいそうな感覚に、否が応でも惹きつけられる。

 美枝子は、世間知らずのお嬢さんなどではない。彼女は外の世界を見ているから恐れているのだ。自分の生まれや、変わりゆく世の中、そういう世間の俗識について、彼女は無知ではなかった。

 世間知らずのお嬢さんという認識は、この頃にはとっくに改められていた。

 彼女とはじめて逢って話をした時、本当は、彼女のことが羨ましくてありがたくて、仕方なかったのだ。屈託なく桜に触れる彼女は、とても安らかな顔をしていた。慈愛に満ちた手つき目つきで樹に触れ、樹と語り合う。彼女は心から屈託なく草や樹を大事に思っているのだ。彼らと話をすることを、当たり前に受け止めている。声が聴けるかという将志の問いに、彼女ははっきり頷いた。樹と話せるということにも増してそのことが、将志の心に深く残っていた。この少女は恥じていないのだと、瞬時にわかった。将志の持つ羞恥心と苦しみからはかけ離れたところに、彼女はいた。

 そして、樹の声が聴けるとはっきり頷いた後の、「冗談だとお思いでしょうね」という言葉。あの茶目っ気と悲壮感のなさは、好ましい以上にありがたかった。将志が以前樹の声を聴けたことを打ち明けることができたのは、彼女にはかつての自分が抱いていたような歪んだ自尊心や切迫感がなかったからに他ならない。同じ力を持っていても、彼女は将志に比べてはるかに清らかで健全だった。

 自分で気づきもしないうちに遠い日に置いてきた、実は歩みたかった道を、彼女に見せられたような気がした。

 だからあの時、彼女に「僕も聴こえた」と言った冗談は、その実、冗談などではなかったのかもしれない。それまで凍っていた将志の一部が、あの桜と話す美枝子の姿を見ることで溶けだした。理解者を求める心が、美枝子を求めて言わせたのだ。僕も聴こえた、と。

 きっと、軽快な口調の裏では切実に思っていた。

 どうか、冗談にしないで信じてくれないか。嘘などないんだ、本当のことを言っていると気づいてくれ――。

 美枝子も同じ気持ちだったんじゃないか。だから将志に、聴こえると頷いて笑ってくれたんじゃないか。「冗談だとお思いでしょうね」と茶化してみせたのは、単なる気の利いた社交辞令などではなかったのだと、後になってわかった。

 思うに、美枝子はこれまでずっとあのような堂々とした態度や冗談で、自分の信念と友人を守っていたのだ。世間とつながりながらも、自分を消したり偽ったりしないでいるために冗談を言う。社交辞令のためなどではなくて、彼女自身を守るために。彼らと関わることを嘘にしないために。

 そのことに気づいて、美枝子のことを心の底から尊敬した。そして、安心した。自分で否定し恥じてきたことが、恥じなくていいことだったのだと赦されたようだった。同じように彼らと話す歓びを知り、なおかつそれを堂々と受け入れている彼女は眩しかった。

 その彼女が、自分と同じようにいつかこの力を失ってしまうなどとは、考えられなかった。そんなことは、させたくない。彼女が大事にしているものを、失くさせたくはない。

 大丈夫だと言ってやりたくて、それまで彼女との間にあった距離を壊しにいくことを決めた。

「きみは失わずにすむかもしれないよ、僕と一緒にいるならね」

 美枝子は一瞬呆けた顔をして、それから丸い黒目を見せた。白い頬にさっと赤みが走った。

「すぐに結婚してくれと言いたいわけじゃない、僕にいくらか時間を割いてほしいんだ。僕は、きみが大事にするものについて理解できると思う。少なくとも、きみが近い将来見合いをさせられる、どこかの他の御曹司よりはね。僕と一緒にいるかぎり、きみは自分を隠したり偽ったりする必要はない。まして、本当に失ったり忘れたりすることはないんだ」

 将志はそっと美枝子の手を取った。指先を軽く包み込むだけでよかった。

「失くしてしまった僕が言うんだ。きみが失くしたくないと言ったものが何かは、わかっているつもりだよ。きみが失いたくないと言ったのは、自分の信念や、大事な場所や、分かり合える相手のことだ。それらを捨てることは自分を否定することになるし、そうなればきみの大切なものの価値を失くしてしまうことになる。きみは、きみの本質的な部分を失くして他人や世間に認められてもそれは無意味なことだと考えている。もちろん、きみは自分の生まれや身分に無知でないから、須藤家の一人娘として賢明でいることも大切にしたいと思っている。すべてを両立させ、他人に認めてもらうことの難しさは承知しているはずだ。でも、流されるのを恐れているね。きみは自分の中の大事な部分を取り除かれることが怖いし、まして自分で取り除いてしまうのは許せないだろう」

 将志の手の中で、小さな指が身じろぎした。震えたと思ったらするりと逃げだして、将志の手は空っぽになった。

「……ずるいわ。自分に時間を割いてくれとおっしゃって、そんな話をするなんて。私のことを見透かして」

「わかっているよ、すまない。きみの不安を煽っておいて僕を選べというのは確かに卑怯だ。でも誤解しないでくれ。僕はきみを見透かしたんじゃない。僕の中にもともとあった心が、きみにも当てはまるんじゃないかと思っただけなんだ」

「もともとあった、心」

「ああ。僕は不安な心を知っている、愛しさも哀しみも。それでも僕が失ってしまったのは、僕が薄情だったからだ。でもきみはそうじゃない。それだけで、僕にとってはありがたかった。きみが心底大事そうにしているから、僕は自分が捨てたり諦めたりしたものが、本当は価値あるものだったんだと気がついた。迷いがあってもいい、完璧じゃなくったっていいんだ、きみは失いたくないんだろ。僕はその、きみの心をわかりたい」

 正直な言葉があふれだす。美枝子は冗談と同じようにたくさん素直な言葉を伝える娘だったから、将志にもそれが伝染したらしい。

「だから、考えてみてくれないか、僕と一緒にいることを」

 一度すり抜けた白い指が、再び将志の指先に触れた。

 どちらからともなく絡み合った指先に、桜の葉を通しておちた木漏れ日が揺れていたのを、将志は今でも憶えている。



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