◆聴こえぬ世界
庭師と話ができたのは朝早い時間だけだった。
昼間は客人の相手をするため、ほとんど応接室でいなければならなかった。叔父の彦次郎は午後から役人と会うことになっており家を空けていた。その間に将志が応対したのは大坂の呉服商であった。西宮家は御一新の前から得意先で、今は英国の商会との貿易をいくらか支援している。呉服商は向こうの珍しい機織り機を輸入し、洋服の仕立て屋としてその事業を分割、拡大した。西宮家は得意先であり後ろ盾というわけだ。そのつながりは商人にとってたいそう重要なので、新しい商品が入るなどした際には必ずお伺いを立てにわざわざ屋敷まで売り込みに来るのである。
屋敷に客人が絶えないのは、こうして西宮家がかねてより援助や投資をしている組合が数多くあるからなのである。
彦次郎は夕方には帰宅し、呉服商が置いていった品物と伝言を将志から受け取った。
「助かったよ、ありがとう。昨日は遅くまで酒に付き合わせてしまったし。二日酔いにならなかったか」
「いえ、大丈夫ですよ。飲みすぎに気をつけないといけないのは叔父上のほうでしょう、僕はまだ若いからいいけど」
「相変わらず余計な口をきかないと気が済まないんだな、きみは」
彦次郎はわざとらしく肩をすくめてから、「きみは昨日くらい寡黙でちょうどいいんじゃないか」といった。目の奥に灯る悪戯っぽい光は、軽口を叩いた将志の期待通りの反応だ。
「僕は時と場所と相手を弁えているつもりなのですが」
「だからその相手という無駄な一語をはずせないのかい。やれやれ、昨日菊田は将志もずいぶんと落ち着いてきたというようなことを言っていたが、訂正が必要だな。本性はちっとも変わらんね」
「やだなあ、精進しますよ」
「そうかい、期待しないよ」
彦次郎は将志が軽口を叩けば興じてくれるから気安い。
夕食の席では互いに近況を報告しあう。彦次郎はこの屋敷のことを、将志は東京の屋敷ことを。将志が帰郷した際の決まった習慣である。東京と播磨、それぞれの動きを互いに把握しておくことが目的である。何か特別伝えるべきことがあれば、将志が東京に戻ってから父の耳に入れることになる。
「貴志から便りは? きみのほうが詳しい手紙を受け取っているだろう」
「ええ、つい先日届いたばかりです。特に変わりなく、達者にやっていると」
「まあ貴志なら心配はないだろう。帰ってきて活躍するのが楽しみだな」
そうですね、と他意のない相槌を打つ。
「きみは留学する気はないのか」
彦次郎が問うた。
将志に迷いが生じたのはほんの一瞬のことであった。叔父には、本当の言葉を伝えるべきかと。兄に返事をできなかった、あやふやな自分の心を、叔父には正直に「わからない」と伝えるべきかと。叔父は、将志が父や兄の報告をするために本邸に戻ってきても、必ず将志自身のことを気にかけてくれる。父や兄を前にしたとき以上に、将志は自然な気持ちで冗談を言える。だったら、叔父にだけは、と。
「どうだい、将志」
途端、素直さと弱さは叔父の期待のこもった眼差しに怯え、逃げ隠れた。
――きみに『次』の字を付けなかったのは。
叔父の言葉が、将志の内側を流れる。
そうだ、叔父もまた、期待している。兄に対するのとは違った程度で、それでも確かに将志に期待している。西宮家にふさわしい人間になることを。「将志」とそう呼びかけることで、将志を縛ってきたではないか。ある意味、兄よりも父よりも、巧妙に。
「僕は……」
兄のように正しいことは言えない。だからといって、昔みたいに自分を主張して強い言葉を返すこともできない。期待に応える気もないくせに、周囲の顔色を窺ってばかりいる。
けれど、自分はその中で生きていくだろうと、将志にはわかっていた。そして、そこにあるのは何も、諦念と倦怠だけではない。確かな思いがある。ただ流されて、西宮家の一員をやっているわけではない、その自覚もある。
これはともすれば将志自身をあの裏庭から遠ざけるほどの強い思いだった。
叔父から閉じようとしていた心が再びそろりと顔を出す。
「僕はまだ、わからないのです」
西欧に何があるのか。何を、手放そうとしているのか。
侯爵である父が何をしようとしているのか。兄が何を目指しているのか。そして自分はどこへ行き、何をすべきなのか。
嘘も見栄も取り払った自分の惨めさを将志は大変に嫌っていたが、皮肉にもこの無力感は彼の誠実さの表れでもあった。
「いいんだよ」
叔父の面差しは優しかった。
「焦ることはないさ。きみが思うようにやればいい。侯爵家の一員だからといって、何も兄上と同じに生きなければならないわけじゃない」
あの時と同じだ。冷めた気持ちの裏に微かな鼓動があった。体温を感じる。己の内に血が流れているのを思い出す。
埋まらない溝が常にあった。対岸を見ないふりをして軽々しく生きてきた。いい加減な真似ごとをして、形だけ混ざっていられればそれでよかった。崇高に生きずとも人生に愉しみを見出すことは可能なはずだ。そう思っていたのだ、あの時までは。
この名に与えられた意味、それはまだ将志には身に余る。けれどあの時、将志は確かに使命を感じた。
聴きたい、と思った。樹ではなく、人の言葉を。それまで樹に対して抱いていたのと同じ切実さで、そう思った。
わかりたい、父や兄のこと。ずっとわかりたかった。この家の誰のことも厭わしくは思えない。叔父を憎むことはできない。偽善でなく、彼らを理解したいと思っている。自分が生まれこの先も生きていく、雑多で忙しない未知の世界に、混ざりたい。たとえ、あの裏庭を失っても。
生まれてはじめて、“西宮”将志になりたいと思った。洋装に身を包んだ者どもが闊歩し、黒く頑丈な鉄道が走る世界が自分を必要としてくれるのならば、自分はそれに報いた人間になろう。
そして今、叔父を前にした将志の脳裏に、一つの疑念が生じた。食事を終えて自室に下がった後も、この考えは将志の頭から離れなかった。
――あの時の決意が、秘密の力を最終的に奪ったのではあるまいか。
失うことは必ずしも悪しきことではない。今朝聞いた庭師の言葉が思い出された。聴こえぬ者たちの世界を望んだその時点で、すでに薄れかけていた力は完全に失われたのではないだろうか。
将志は草木の声に耳を傾けなくなっており、傾ける理由もまたなくなっていた。遅くとも帝国大学に入学した時には完全に力は失われていたことになる。
話す必要を感じなくなり、話さない者たちの世界で生きていくことを真剣に考えるようになった時、将志の中でこの力は消えたのかもしれない。




