第九話 右辺の石
席に着いたとき、朝倉湊は盤全体を見なかった。
見れば、また抱えたくなる。
薄い場所も、大きい場所も、遅れそうな流れも、全部気になってしまう。だから今日は、最初から一つだけにした。
右辺の石を、最後まで働かせる。
それだけを持って座る。
先手AI、後手AI。
序盤は静かに進み、思った通り右側に石が残った。まだ軽い。けれど、この石が消えると盤全体が細くなる。湊にはそう見えた。
先手人間の番で、湊はそこへ近づいた。
固め切る手ではない。守るだけでもない。次に中央へ顔を出せるよう、呼吸を一つ残す手だった。
向かいの相手はすぐには打たなかった。
そのわずかな間だけで、湊の指先から余計な力が少し抜ける。
中盤に入ると、相手は左側を広げた。
前までの湊なら、そこで気持ちが揺れる。大きい場所を取られたくなくて、盤全体を追いかけに行く。
だが今日は違った。
右辺の石は、まだ働く。
そこから中央へ向かう利きも残る。なら今は、全部を追わない。
湊は左をすぐには見なかった。
右辺の石が息を失わないように、もう一手だけ意味を足す。相手に楽をさせず、それでいて石を重くしすぎない位置。置いたあとで、盤の右側に細い筋が一本通るのが見えた。
その瞬間、自分の手が少しだけ盤につながった気がした。
AIの一着が入り、中央が温まる。
相手もそこを見て踏み込んでくる。前なら、その踏み込みにすぐ反応していた。嫌な流れを止めるために、受けて、受けて、気づけば後ろへ下がる。
今日は、まず右辺を見た。
まだ働く。
まだ消えていない。
なら、ここでは全部受けない。
湊は踏み込まれた場所ではなく、右の石が中央に利く位置へ打った。
強い手ではない。けれど、相手だけが楽になる順序を崩すには足りた。
向かいの相手が小さく眉を動かす。
それだけで十分だった。
終盤は細かかった。
右辺の石は最後まで残った。厚くも大きくもない。だが、残ったまま中央へ利き、最後のヨセでも相手に一手だけ余分を強いた。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
白半目勝ち。
負けだった。
けれど席を立つとき、湊は前みたいな空虚さを感じなかった。
今日は何を持って座って、どこまで持てたかが残っている。
「負けた顔してないね」
廊下で、藍原紗英が言った。
「負けたけど」
「うん。でも今日は、負け方がちゃんと一個になってる」
「一個?」
「右辺の石、最後まで働かせたでしょ」
湊は少しだけ黙る。
「勝てなかった」
「まだね」
「でも」
「でも、前より盤の中にいた」
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
嬉しいと思ったことが、むしろ悔しい。
「次は」
と紗英が言う。
「その一個を持ったまま、どこを見るかだね」
湊はうなずく。
盤全体はまだ遠い。けれど、一つだけなら持てる。それが分かっただけでも、今日はゼロではなかった。




