第十話 石の先
半目負けのあと、朝倉湊はすぐには会場を出なかった。
対局室の脇にある空いた検討机に座って、さっきの盤を頭の中で並べ直す。
右辺の石は、たしかに最後まで働いた。そこは消えていない。けれど、勝てなかった。
なぜか。
右辺の石を残すことばかり見て、その石がどこへつながるかを途中で見失ったからだ。
中央へ息を送るのか。上辺へ圧をかけるのか。相手の石を窮屈にするのか。そこが曖昧になった瞬間、盤の温度が少しだけ向こうへ寄った。
「そこまで見えているなら、今日は悪くない」
小田切の声だった。
湊は顔を上げる。
「勝てませんでした」
「勝てなかったな」
「でも、前よりどこで外したかは分かります」
「それで十分だ」
小田切は向かいの椅子に座らなかった。
机の端に軽く手を置いて、盤のない盤面を見るみたいに視線を落とす。
「一つの石を最後まで働かせる」
「はい」
「今日はできた」
「少しだけ」
「少しでいい」
そこで小田切は、短く続けた。
「次は、その石の先だ」
「先」
「その石を残して、どこへつなぐのか」
湊は黙った。
「石は残るだけでは足りない」
小田切が言う。
「残した石が、次にどこを見るかで盤になる」
「盤全体を、ですか」
「まだ早い」
少しだけ、湊はほっとする。
「隣でいい」
「隣」
「右辺の石なら、その隣の景色だ。中央へ利かせるのか、上辺へ圧をかけるのか、相手に受けを残すのか。まず一つだけ決めろ」
隣の景色。
その言い方が、湊には少しだけ分かりやすかった。
盤全体はまだ広すぎる。けれど、石のすぐ隣なら見られる気がする。
「先生」
「何だ」
「自分、まだすぐ全部見たくなります」
「だろうな」
「それで結局、何も持てなくなる」
「そうだな」
あっさり認められて、湊は少しだけ苦笑した。
「だから順に持て」
小田切は言う。
「一つの石。次にその先。盤はそのあとだ」
会場の奥で、次の組み合わせが張り出されたらしい。人の気配が少し動く。
誰かが走らない程度の速さで掲示板へ向かっていく。
湊も立ち上がった。
「次、何を見る」
と小田切が聞く。
湊は少しだけ考えたあとで答える。
「右辺の石から、中央へ息を通せる形を見ます」
「それでいい」
短い返事だった。
でも、その短さのぶんだけ迷いが少ない。
掲示板の前には、もう何人か集まっていた。
自分の名前を探す。次の相手を見る。段位を見て、少しだけ喉が乾く。
それでも今日は、前みたいに数字だけで苦しくはならなかった。
持って座るものが、ゼロではないからだ。
右辺の石。
その先の中央。
まだ小さい。
でも小さいまま持てることが、今の湊には大事だった。
掲示板から離れようとしたとき、少し向こうで藍原紗英と目が合った。
彼女は何も言わない。ただ、こちらの顔を見て、小さく一度だけうなずく。
分かった気がした。
まだ勝ち方は手に入っていない。
でも、次に何を見るかは、前より少しだけ自分で決められる。
湊は対局室へ戻る前に、右手を軽く握った。
石を残す。
その先を見る。
今日はそこまででいい。
そこまでを、自分で打つ。




