第十一話 石の先へ
席に着いたとき、朝倉湊は右辺だけを見た。
その石を残す。
その先を、中央へ通す。
盤全体を抱えない。
今日はそこまででいいと決めていた。
先手AI、後手AI。
序盤は静かだった。右上から始まり、右辺に石が残る。思っていた通りの並びだった。
先手人間の番で、湊はその石に近づいた。
守り切る手ではない。右辺で息を残しながら、中央へ顔を出せる形を先に作る。前なら曖昧に打っていた場所だったが、今日はどこへつなぎたいかが先にあった。
向かいの相手は二段。
湊の手を見て、すぐには応じなかった。少しだけ考えて、それから左側の大きい場所へ回る。
その瞬間、湊の中で前の癖が動いた。
追いたくなる。左を放っておくと遅れる気がする。盤全体を見れば、たしかにあちらも大きい。
でも今日は、そこで右を見た。
まだ足りていない。
この石は残るだけでは細い。中央に触れて、初めて意味になる。
湊は左へ行かなかった。
右辺から中央へ、もう一手だけ伸ばす。強い手ではない。けれど、相手が次に右を軽く見られなくなる手だった。
置いたあとで、盤の中に細い線が一本通った気がした。
ああ、と湊は思う。
これだ。
石を残す。
その先を作る。
今までは頭で並べていた言葉が、やっと盤の上でひと続きになる。
中盤、相手は中央へ踏み込んできた。
早めに潰しておきたいのだと分かる。右辺の石と中央の線が、そのまま働く前に細くしたいのだ。
前なら、そこで湊は受けに回っていた。
嫌な流れを止めようとして、一手ごとに後ろへ下がる。
だが今日は、下がる前に見えるものがあった。
右辺の石。
そこから伸びた中央の線。
その二つがまだ切れていない。
なら、ここでは全部受けない。
湊は相手の踏み込みに真正面から応じず、その線が生きる位置へ置いた。
相手の石をすぐ責める手ではない。けれど、踏み込んだ石を楽にはさせない。こちらの石も、まだ盤の中に残る。
向かいの二段が、そこで初めて深く息を吐いた。
湊の胸の奥にも、少しだけ熱が入る。
読み切れているわけではない。正しいかも分からない。
それでも今の一手は、怖さから逃げた手ではなかった。
AIの一着が中央に触れる。
その瞬間、右辺から通していた線が少し太くなった。
湊はそこで、自分の碁が初めて盤の中で前へ進んだ感じを覚えた。
大きな優勢ではない。
相手も崩れていない。
でも、どこを見て打っているかが、もう自分で分かる。
終盤まで行っても、その線は消えなかった。
右辺の石は最後まで働き、中央のやり取りでも一手ぶんだけこちらに余裕を残した。ほんの一手。だが、その一手が最後には目数になる。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
黒半目勝ち。
小さい。
小さかったが、湊には前の一目勝ちより、ずっとはっきりした勝ちに見えた。
席を立って、頭を下げる。
対局室を出る直前、湊は一度だけ盤を振り返った。
右辺の石。
そこから中央へ通した線。
今日はそれが、最後まで消えなかった。
廊下へ出ると、少しだけ肩の力が抜けた。
「今のはよかった」
藍原紗英だった。
壁の近くに立って、こっちを見ている。
「見てたのか」
「途中から」
「最近ほんと途中からだな」
「全部見なくても分かるときあるから」
その言い方に少し腹が立つ。
でも今日は、前ほど嫌ではなかった。
「勝ったね」
「半目だけど」
「半目で十分」
紗英は短く言った。
「今日の湊、ちゃんと石の先を見てた」
「……一応」
「一応じゃない。そこはちゃんとやれてた」
「でも、まだ盤全体じゃない」
「うん、まだ全然」
そこは迷いなく切ってくる。
「でも」
と紗英は続ける。
「今日は一局の中で、手がつながってた」
その言葉を聞いたとき、湊はようやく少しだけ笑った。
手がつながっていた。
たしかにそうだった。
最初の一手と、その次。その次と、そのまた次。今日は途中で自分の中の線が切れなかった。
それだけで、勝ち方の見え方まで変わるのかと思う。
「次は」
と紗英が言う。
「その線を、どこまで広げるかだね」
湊はうなずく。
盤全体はまだ遠い。
でも、一つの石から、その先までは見えた。
その線をもう少し伸ばせるなら、次は違うものが見えるかもしれない。
廊下の向こうで、次の組み合わせを知らせる声がした。
湊はそちらを見る。
半目勝ち。
それだけで何かが変わるほど甘くはない。
けれど今日は、自分の手がどこからどこへつながっていたのかを、終局のあとでも言葉にできる。
それはたぶん、今までになかったことだった。




