第十二話 広げすぎた線
勝った次の一局で、朝倉湊は少しだけ浮いていた。
右辺の石を残し、その先を中央へ通す。
前の対局で、それが一局の中でつながった。たった半目でも、自分の手が盤の中で続いていく感触は、思っていたより強く残る。
だから次の席で、湊は少し欲張った。
右辺だけじゃない。
その線を中央から左へも伸ばせたら、もっと盤になるんじゃないか。そう思った。
先手AI、後手AI。
序盤はまた右側に石が残る形だった。湊は前と同じようにそこへ近づく。呼吸を残し、中央へ顔を出す。そこまでは悪くなかった。
問題は、その次だった。
相手が左側の大きい場所に回ったとき、湊は待てなかった。
前なら見送っていた。まず右辺の石を働かせ、その先を中央へ通すことだけを見ていたはずだった。
なのに今日は、中央へ出たその流れを、そのまま左へ伸ばしたくなった。
盤が広く見えたのだ。
置いた瞬間、悪くない気もした。
右から中央、中央から左。流れが一本でつながるように思えた。自分の碁が、前より広くなる感じがした。
だが、その流れはまだ細かった。
AIの一手が入る。
相手の人間が応じる。
右辺に残していたはずの呼吸が、少しだけ遠くなる。
湊はそこで気づく。
右の石は、まだ中央までしか届いていない。
左まで欲しがるには、途中が軽い。
まずい、と思ったときには、もう順序がずれていた。
左へ伸ばした一手のせいで、中央が落ち着かない。
中央が落ち着かないせいで、右辺の石も前ほど働かない。つなげたつもりの流れが、どこにも腰を落ち着けられないまま盤の上に散っている。
相手はそこを急がなかった。
すぐに咎めるのではなく、一手待って、さらに一手置く。そうやって湊の石が自分で軽くなるのを待つ。
その待ち方が、一番苦しかった。
強く殴られているわけではない。
でも、自分の欲がそのまま形の甘さになって、盤の上に残っていく。
中盤、湊は二度受けた。
一度目は必要だった。
二度目は、伸ばしすぎた流れを自分で回収しに行く手だった。
その時点で、もう盤の呼吸は浅くなっていた。
右辺を起点にするはずだったのに、右も中央も左も、全部が中途半端になる。
どこも完全には死んでいない。けれど、どこも盤の芯にはなれない。
終盤まで行くころには、勝負はもう小さく縮んでいた。
広く取りにいったはずなのに、残ったのは細かい損の積み重ねだった。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
白二目半勝ち。
席を立つとき、湊は右手を見た。
前の一局では、つながっていた手。今日はその手が、途中から自分でほどけた。
廊下へ出ると、空気が少し冷えていた。
「欲、出たね」
藍原紗英がいた。
湊は少しだけ顔をしかめる。
「見てたのか」
「途中から」
「最近そればっかりだな」
「途中で分かるから」
今日は、その言い方が少しだけ腹立たしかった。
「何が駄目だったか分かる?」
と紗英が聞く。
湊はすぐに答えなかった。
でも、分からないわけではない。
「右の石が、まだ中央までしか届いてなかった」
「うん」
「なのに左まで欲しがった」
「うん」
「流れを広げたかった」
「広げてよかったんだよ」
紗英は言う。
「ただ、広げる前に、その流れがちゃんと働く形か見た方がよかった」
その一言が、盤の上の負け方とぴたり重なった。
湊は壁にもたれずに立ったまま、小さく息を吐く。
「前より見えてるのに、前より欲が出る」
「そういう時期でしょ」
「面倒だな」
「面倒だね。でも、たぶん前よりちゃんと負けてる」
ちゃんと負ける。
嫌な言い方なのに、少しだけ救われる。
今日はただ崩れたわけじゃない。
どこまでが自分の流れで、どこからが欲だったかが、負け方の中に残っている。
「次は」
と紗英が言う。
「伸ばす前に、右の石がまだ働いてるか見なよ」
湊はうなずかなかった。
でも、その言葉は今の自分に必要だと分かった。
右辺の石。
その先の中央。
そこまでは持てた。
なら次は、その流れを欲で引き延ばすんじゃなく、その石がまだ盤に利いているかを見ながら打つ。
会場の向こうで、次の組み合わせを知らせる声がした。
湊は顔を上げる。
負けた。
でも、どこで自分の流れが空回りしたのかは、前よりずっとはっきり見えていた。




