第十三話 働いている石
白二目半負けのあと、朝倉湊はしばらく対局室の外に出なかった。
盤を見れば、どこで欲が出たかは分かる。
右辺の石から中央へ通した流れ。そこまではまだよかった。なのに、その先を急いで左へ伸ばした。伸ばしたかった、というより、伸ばせる気がしてしまった。
そのせいで、右の石まで軽くなった。
「見えているなら、まだいい」
小田切の声だった。
湊は顔を上げる。
今日は通路ではなく、対局室の脇だった。人が少しずつ次の席へ散っていく中で、小田切だけが立ち止まっている。
「よくないです」
「勝てなかったからか」
「それもあります」
「それだけじゃないな」
湊は少しだけ黙ってから言う。
「右の石が、まだちゃんと働いてなかったです」
「うん」
「なのに、その先ばかり見ました」
「うん」
小田切はすぐに続けなかった。
その間があるせいで、湊は自分で言葉を足さなければならなくなる。
「中央まで出たから、次もある気がして」
「気がした」
「はい」
「でも、その石はまだ盤に利いていなかった」
そこで初めて、小田切が言葉を置いた。
湊はわずかに息を止める。
「石は、置いただけでは働かない」
小田切が言う。
「残っているだけでも足りない。呼吸があって、周りに利いて、相手に無視されない形になって、初めて働く」
「……はい」
「おまえは今日、その前に伸ばした」
きっぱり言われると、もう逃げられなかった。
「先生」
「何だ」
「働いているかどうかって、どう見ればいいですか」
小田切は少しだけ盤の方へ目をやった。
「その石を、相手が放っておけるかどうかだ」
「放っておけるか」
「そうだ。放っておいても何も起きない石なら、まだ軽い。ただ残っているだけだ」
「じゃあ、放っておけない石なら」
「それは盤に利いている」
湊はその言葉を頭の中で並べる。
放っておける石。
放っておけない石。
「おまえの右辺の石は」
と小田切が言う。
「中央へ顔は出していた。だが、まだ相手が本気で嫌がるところまでは行っていなかった」
「だから、先へ伸ばすのが早かった」
「そうだ」
会場の奥で椅子が引かれる音がした。
次の対局の準備が始まっている。
「伸ばしたいなら、その前に見ろ」
小田切は言う。
「その石が、まだ盤に利いているか」
「利いていなかったら」
「まず利く形にしろ」
「利く形……」
「呼吸を残すでもいい。相手に応手を残すでもいい。中央へ出るでもいい。やり方は一つじゃない」
湊は少しだけ顔をしかめた。
「結局、難しいです」
「囲碁だからな」
「そこで開き直りますか」
「開き直ってはいない」
小田切は少しだけ笑った。
笑うといっても、口元がわずかに緩むだけだ。
「ただ、おまえはやっと順番の話をできるところまで来た」
「順番」
「何を持つか。どこまで見るか。いつ伸ばすか。そういう順番だ」
「……前は、そこまで行ってなかったですか」
「前はもっと手前だ。嫌な流れが見える、で終わっていた」
それは悔しいが、否定はできなかった。
「でも今は」
と小田切が続ける。
「石を残す。その先を見る。伸ばす。そこまで行った」
「負けましたけど」
「負けたな」
「毎回そこは認めるんですね」
「負けたものを勝ったことにはできない」
まっすぐすぎて、少しだけ笑いそうになる。
そういうところが、この人らしい。
「次は」
湊は言う。
「右の石が、まだ盤に利いているか見ます」
「うん」
「相手が放っておける石なのか、放っておけない石なのか」
「うん」
「その上で、伸ばすかどうかを決めます」
小田切は一度だけうなずいた。
「それでいい」
「小さいですね」
「小さくていい」
「またそれですか」
「小さいことを外さずに打てる人間が、最後に大きいものを持つ」
その言葉は、前にも似た形で聞いた気がした。
でも今は、前より少しだけ分かる。
右辺の石。
その石の先。
その石がまだ働いているか。
盤全体にはまだ届かない。
それでも、次に見る場所はまた一つ、はっきりした。
「行ってこい」
と小田切が言う。
「今度は、石の都合を見ろ」
「はい」
湊は歩き出す。
次の席までの距離は短い。
なのに、その短いあいだに、持つものがまた一つ増えている。
石を残す。
その先を見る。
そして、まだ働いているかを確かめる。
今日はそこまでだ。
そこまでを、自分の手で外さずに打つ。




