第十四話 放っておけない石
席に着いたとき、朝倉湊は右辺を先に見た。
石を残す。
その先を見る。
そして、その石がまだ盤に利いているかを見る。
今日、持っているのはそれだけだった。
先手AI、後手AI。
序盤は静かに進み、右側に黒石が一つ残った。前にも何度か見た形だ。けれど、今日はその石の見え方が少し違う。ただ残っている石としてではなく、ここから何が起きるかを決める石として見えている。
先手人間の番で、湊はそこへ一手足した。
守り切る手ではない。中央へ顔を出しながら、右辺の呼吸を消さない位置だった。
向かいの相手は三段。
盤を見て、すぐには打たなかった。少し考えてから、上辺の大きい場所へ回る。
そこで湊は、前の自分なら迷っていたと思う。
大きい場所を追いたくなる。遅れたくない。盤全体を見れば、たしかに上辺も大きい。
だが今日は、追う前に右の石を見た。
まだ軽い。
でも、次の一手しだいで相手が放っておけない石になる。
湊はその場所に置いた。
強く攻める手ではない。
それでも、もし相手が無視すれば、右辺から中央へこちらの流れがはっきり残る。相手の石の息も少し苦しくなる。盤の右側に、ようやく「見ていないとまずい」と言わせる気配が生まれる。
向かいの三段は、今度ははっきり止まった。
その間だけで、湊の胸の奥が少し熱くなる。
放っておけない。
まだ勝っていない。
形勢が良くなったわけでもない。
それでも、自分の石が盤の中でちゃんと相手に届いたのだと分かる。
相手は受けた。
軽くではあるが、受けざるを得ない形だった。
湊はそこで、息をひとつ深く吸う。
これだ、と思う。
石が働くというのは、こういうことなのだ。残っているだけではなく、相手の手を一度そこへ向けさせること。盤の都合の中に、自分の石を入れること。
中盤はすぐに楽にならなかった。
相手も三段らしく、その受けで終わらせない。右を見せられたぶん、今度は中央を軽くしようとする。こちらが右で得た呼吸を、別の場所で薄くし返しにくる。
湊は一度、前へ出たい気持ちをこらえた。
もう一度利かせたい。もう一度相手に受けさせたい。そう思う。だが、それを急げば前みたいに流れがほどける。
だから今日は、踏み込まなかった。
右の石は、もう一度相手に見せた。
それで十分だと決めて、中央が切れない形を取る。派手ではない。けれど、自分で作った流れを自分で壊さないための手だった。
そのあとAIの一着が入る。
右辺から中央へ残していた筋が、わずかに太くなる。盤全体の形勢はまだ細かいままだが、少なくとも湊には、どこを自分の都合として持っているかが分かった。
終盤まで行くと、差は小さかった。
相手も大きく崩れていない。こちらも取りきれていない。だが、今日は途中で「何を見て打っていたか」が切れなかった。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
黒一目半勝ち。
席を立つとき、湊は盤をもう一度だけ見た。
右辺の石は、大きな地になったわけではない。目立つ戦果もない。けれど、あの石が一度相手に応じさせたこと、そのあとも中央へ利きを残したことが、最後の一目半になった気がした。
廊下へ出ると、少し遅れて身体の力が抜けた。
「今日はちゃんと嫌だったと思う」
藍原紗英の声だった。
湊は振り向く。
「何が」
「相手にとって、右の石」
「見てたのか」
「途中から」
もうそこは聞かなくていい気もした。
「受けさせられた」
と湊は言う。
「うん」
「一回だけ」
「一回で十分なときもある」
紗英はそう言って、壁に軽く肩をつけた。
「今日の湊、ちゃんと『放っておけない石』にできてた」
「……そこまではよかった」
「そのあと欲張らなかったのもよかった」
「前に失敗したから」
「失敗したの、ちゃんと残ってるじゃん」
その言い方に、少しだけ湊は笑う。
勝った。
でも、勝ったことより先に残るものがある。
ただ石を残すだけじゃ足りない。
その石が相手に届いて、相手の手を一度止めて、そこで初めて盤に利く。
今日はそれを、自分の手で確かめられた。
「次は」
と紗英が言う。
「利かせたあと、何を取るかだね」
湊はすぐには答えなかった。
たしかに今日は、相手に受けさせることはできた。
でも、そのあとで何を大きくしたのかと聞かれたら、まだ少し曖昧だ。
盤に利く石。
放っておけない石。
その次にあるものが、また少しだけ見え始めている。
湊は対局室の方を見た。
次の席まで、まだ少しだけ時間がある。
一つずつでいい。
今日そう思えたのは、たぶん初めてだった。




