第十五話 取るもの
次の対局でも、朝倉湊は右辺から見た。
石を残す。
その石を相手が放っておけない形にする。
そこまでは、前の一局で少しだけ分かった。
問題は、そのあとだった。
先手AI、後手AI。
序盤は静かに進み、また右側に石が残る。湊はそこへ一手足し、中央へ顔を出す。さらにもう一手で、相手が無視できない形を作った。
向かいの相手は初段だったが、軽い人間ではなかった。
盤を見て、少し考え、それから受ける。
受けさせた。
その瞬間、湊の中に小さく熱が入る。
前ならそこまでで十分だった。自分の石が盤に利いた、それだけで一歩だった。
だが今日は、その先がすぐに来た。
相手に一手使わせたあと、自分は何を取るのか。
中央の形を少し厚くするか。
上辺の大きい場所へ回るか。
それとも、右辺の石そのものをさらに落ち着かせるか。
どれもありそうに見えた。
どれも悪くはなさそうだった。
そのせいで、決まらない。
湊は迷った末に、右辺をもう一度見た。
せっかく利いた石だ。なら、まずはその石をしっかり残そう。そう思って、もう一手近くに置いた。
悪い手ではなかった。
呼吸は深くなる。形も整う。あとで困りにくい。
けれど置いた瞬間、少しだけ胸が冷えた。
取ったものが小さい。
相手に一手使わせたのに、自分はその場を少し整えただけだった。
盤の外に残るはずだった余裕を、そこで細く使ってしまった感じがある。
AIの一着が入る。
相手の人間が今度は上辺へ回る。
さっきまでこちらにあったはずの先の景色が、静かに向こうへ動く。
湊は盤を見て、歯を食いしばる。
そうか、と思う。
利かせることと、取ることは違う。
相手に受けさせるだけでは足りない。そのあとで、自分が何を大きくしたいのかを持っていないと、せっかく生まれた一手ぶんの余裕が、そのまま消える。
中盤は崩れなかった。
右辺の石は最後まで働いた。中央にも少し利いた。相手も簡単ではない。だから碁は細かいまま進む。
でも、主導権の匂いだけが薄い。
こちらの石は悪くない。
形も崩れていない。
なのに、どこで盤を前へ進めるかを決める手は、少しずつ相手の方にある。
終盤に入ると、その差はもっとはっきりした。
一目。半目。二目。
大きな失着はない。だが、序盤から中盤にかけて生まれた小さな余白を、湊は地にも厚みにも変え切れていなかった。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
白半目勝ち。
また半目だった。
席を立つとき、湊は盤を見た。
右辺の石は生きている。ちゃんと働いてもいる。そこはもう前みたいに曖昧ではない。
それでも負けた。
廊下へ出ると、すぐに声がした。
「今日の負け、嫌でしょ」
藍原紗英だった。
湊は少しだけ苦く笑う。
「嫌だな」
「崩れてないのに負けたから?」
「それもある」
「でも、たぶんそこじゃない」
紗英は壁にもたれず、まっすぐ立ったまま言う。
「受けさせたあと、何も取れてない感じ」
「……うん」
その一言で、さっき盤の前で冷えた場所に、名前がついた。
「右の石は働いた」
と湊は言う。
「うん」
「相手も一回受けた」
「うん」
「でも、そのあと自分、何を大きくしたいのか決まってなかった」
「うん」
紗英はそこで、少しだけ目を細めた。
「そこまで見えてるなら、今日はそんなに悪くない」
「負けたけど」
「負けたね。でも今の湊、前みたいに“なんとなく苦しい”じゃない」
「ちゃんと苦しい」
「そう。ちゃんと苦しい」
嫌な言い方なのに、少しだけ救われる。
今日は何が足りなかったかが、盤の上に残っている。
「次は」
と紗英が言う。
「利かせたあとで、何を取るか決めて座った方がいいかもね」
湊はうなずかなかった。
でも、その言葉が必要だとは分かった。
石を残す。
働かせる。
相手に受けさせる。
その先で、何を取るのか。
盤全体はまだ遠い。
それでも、次に足りないものは前よりはっきりしている。
半目負けの数字より、そのことの方が長く残りそうだった。




