第八話 盤の芯
対局室を出たあと、朝倉湊はすぐには歩けなかった。
白三目半。
数字は大きくない。けれど、盤の芯を外した負け方だと分かっているぶん、昨日より苦かった。
「その顔なら、負けた理由は自分で見えているな」
小田切の声だった。
湊は顔を上げる。
通路の角、壁に寄るでもなく立っている。その立ち方だけで、逃げても無駄だと分かる。
「少し渡す、を間違えました」
「うん」
「譲っていい場所じゃなかったです」
「うん」
それだけで終わられると、かえってきつい。
「先生」
「何だ」
「分かってるなら、もっと言ってください」
小田切は少しだけ笑った。
笑うというより、息をひとつ短く落としただけだった。
「言われた通りに打てば勝てるなら、みんな苦労しない」
「……それはそうですけど」
「おまえは今日、人の答えを持って座った」
「人の答え」
小田切はうなずく。
「東雲の碁を見て、少し渡すのが次だと思った」
「はい」
「間違いではない。だが、それは東雲の答えに近い」
湊は黙った。
否定できない。
自分で見つけたというより、あの碁を見たあとで、これが一段先なのだと思って持ち込んだだけだ。
「盤の芯は、人によって違う」
小田切が言う。
「同じ局面でも、何を失いたくないかは違う」
「失いたくないもの……」
「おまえは今日、それを決めないまま譲った」
通路の向こうで、誰かが早足で通り過ぎる。
その足音が消えてから、小田切は続けた。
「芯というと、真ん中の大きいところだと思いやすい」
「違うんですか」
「違うことも多い。流れかもしれない。呼吸かもしれない。石の強弱かもしれない。あるいは、自分の石が最後まで働くことかもしれない」
湊はその言葉を、ひとつずつ頭の中に置いていく。
「おまえの場合は、まだ盤全体を抱えるな」
「でも抱えないと、すぐ薄くなる気がします」
「だから抱えて、細くなる」
きっぱり言われて、湊は言葉を失った。
「全部を持つから、どこも持ち切れない」
小田切は言う。
「まず一局に一つでいい。今日なら、どの石を最後まで働かせたいか、そこだけ決めて座る方がよかった」
「どの石を……」
「そうだ。盤の芯を、もっと小さく持て」
その言い方は、少し意外だった。
芯というからには、もっと大きいものだと思っていた。
盤全体の流れとか、主導権とか、そういうものを掴める人間だけが使う言葉だと。
「小さく、ですか」
「最初から大きく持てるなら、もう困っていない」
小田切はそこで、湊の右手を見た。
さっきまで石を持っていた手だ。
「おまえは、何も持たずに座るよりは前へ進んだ」
「……はい」
「次は、一つだけ石を選べ」
「石」
「その石だけは、最後まで働かせる。そう決めて打ってみろ」
湊は少しだけ眉を寄せる。
「そんなので、変わりますか」
「変わるかどうかを聞くうちは、まだ人の答えを探している」
「きついな」
「甘くしても盤は助けてくれない」
その通りだった。
湊は壁に軽く肩をつけて、息を吐く。
負けたあとでなければ、たぶんここまで入らなかった。盤のどこを外したのかが、まだ手の中に残っているから、今なら少しだけ分かる。
「一つだけ、最後まで働かせる」
「そうだ」
「それが芯になる」
「その一局ではな」
小田切は短く言った。
「一生の答えじゃない。今日の答えでいい」
「今日の……」
「その積み重ねで、自分の碁になる」
通路の先から、次の対局準備を知らせる声がした。
会場がまた少しだけ動き始める。
湊は顔を上げる。
「先生」
「何だ」
「次、自分」
「うん」
「右辺の石を、最後まで働かせたいです」
小田切はうなずいた。
「それでいい」
「盤全体じゃなくて」
「今はそれでいい」
「小さすぎませんか」
「小さくていい。小さいものを持てない人間は、大きいものも持てない」
その言葉は、静かに残った。
湊は通路を離れる。
会場へ戻る足取りは軽くない。負けはまだ負けのままだ。けれど、さっきまでより視線の置き場が一つ増えている。
右辺の石。
あれを最後まで働かせる。
盤の芯なんて、まだ分からない。
でも今日は、その代わりになるものを一つだけ持って座れる気がした。




