第七話 渡していい場所
次の対局で、朝倉湊は最初から一つ決めて座った。
少し渡す。
でも、芯は渡さない。
言葉にすると、前より少しだけ大人になれた気がした。
盤を抱え込みすぎない。守りすぎて細くならない。東雲朔の碁を見たあとでは、それが次の一歩に思えた。
先手AI、後手AI。
序盤は静かに進んだ。
向かいの相手は二段。派手ではないが、石の形をよく見てくるタイプだった。右辺に流れができ、中央へ向かう薄い道が残る。まだどちらのものとも言えない盤だった。
先手人間の番で、湊は受けなかった。
少し譲る。外を残す。そう思って、一か所を軽く見た。
その瞬間は、悪くない気がした。
全部抱えない。細くならない。自分でそう選べたつもりだった。
だが数手あとで、盤の温度が変わる。
譲っていい場所ではなかったのだ、と湊は気づいた。
AIの一手が入る。相手の人間が応じる。
さっき軽く見た石が、もう軽く済まない。右辺と中央をつなぐはずだった呼吸が、逆にこちらの首元を細くしていた。
まずい、と思ったときには遅かった。
助けようとすれば、別の場所が薄くなる。
切れば石が軽くなりすぎる。
受ければ、盤の芯ごと向こうへ寄る。
湊はそこで初めて、自分が“少し渡す”を形だけ真似していたのだと知った。
東雲は、渡していい場所を知っている。
自分はまだ、どこが芯か分からないまま、言葉だけで譲った。
中盤は苦しかった。
大石が死ぬわけではない。けれど、ずっと息が浅い。相手の石は重くならず、こちらの石だけが働きを失っていく。
こうなると、ヨセまで行く前に負け方が決まる。
終局は、白三目半勝ちだった。
席を立ったあと、湊はすぐには廊下へ出なかった。
盤の前で、少しだけ手を見ていた。さっきまで石を持っていた右手。受けなかった手。譲ったつもりで、ただ急所を空けた手。
「顔、分かりやすい」
藍原紗英の声だった。
湊は振り向かないまま言う。
「失敗した」
「うん」
「少し渡す、の意味、全然違った」
「うん」
「それも分かってたのか」
「途中でね」
紗英は隣まで来て、盤を見た。
「湊、今日は逃げなかった」
「でも負けた」
「負けたね。でも今日は、昨日の負け方と違う」
「どこが」
紗英は少しだけ考えてから言った。
「何を間違えたか、盤に残ってる」
その言葉で、湊はようやく盤を見返した。
たしかに、と思う。
今日はただ薄くなって負けたわけではない。譲っていい場所じゃないところを譲った。そのせいで、盤の芯がずれた。負けた理由が、前よりはっきり置かれている。
「次は」
と紗英が言う。
「何を持つかじゃなくて、どこが芯かを見る番かもね」
湊は返事をしなかった。
でも、その言葉は昨日までよりも少し深く入った。
盤を渡さない。
少し渡す。
そのどちらも、結局は同じところへつながっている。
自分にとって、どこが盤の芯なのか。
それがまだ見えていない。
だから湊は、勝っても足りず、負けても終われない。




