第六話 渡しても崩れない人
朝倉湊が東雲朔の碁を見たのは、自分の対局を終えたあとだった。
勝った直後なのに、気分は軽くなかった。
一目勝ちは嬉しい。けれど、それで急に強くなった気はしない。盤を渡さなかっただけだ。まだ、それだけだった。
対局室の後ろに立つ。
東雲の席は、やはり少し空気が違って見えた。
派手な碁ではなかった。
序盤の手も、見た瞬間に驚くようなものではない。
角を欲張らない。無理に踏み込まない。相手の形をすぐ壊しにもいかない。
なのに、しばらく見ていると分かる。
盤のどこを相手に預けて、どこだけは絶対に渡していないのかが、妙に明確だった。
右辺は相手に打たせていた。
少し損をしているようにも見える。
けれど東雲は、その代わりに中央へ出る道だけは先に押さえている。
湊はそこで、少しだけ息を止めた。
自分は「盤を渡さない」で精一杯だった。
でも東雲は違う。
この人は、少し渡している。
渡しても崩れない場所だけを渡して、盤全体はまだ自分のものにしている。
中盤で相手が踏み込んだ。
東雲の石も、完全に厚いわけではない。薄みはある。追えば嫌な形になりそうな石もある。
だが東雲は、そこを全部守らなかった。
一か所、小さく捨てる。
その代わり、外側の利きだけを残す。
その一手が入ったあと、相手の石の方が急に窮屈に見えた。
湊は盤を見ながら、指先を握る。
すごい、と思う。
でもそれより先に、静かで苦い納得が来る。
ああ、ここか。
渡さない、の先。
自分はまだ、手放すことが怖い。
少しでも譲ると、そのまま盤が全部向こうへ流れていく気がするからだ。だから持ちこたえるだけで精一杯になる。
東雲はそうではない。
手放していい場所と、絶対に手放してはいけない場所が、最初から分かっている。
終盤に入るころには、形勢はもう大きく動いていなかった。
でも勝負は、少し前に終わっていた気がした。
相手も崩れていない。
大きな失着もない。
それでも、最後まで盤の都合を決めているのは東雲の方だった。
整地のあと、東雲が半目勝ちと知る。
たった半目なのに、湊には遠く見えた。
自分の一目勝ちより、ずっと遠い。
「どうだった」
横から声がした。
藍原紗英だった。
「強い」
「うん」
「……嫌になるくらい」
紗英は少しだけ東雲の席の方を見た。
「分かりやすいでしょ」
「何が」
「渡さない、の先」
湊は黙った。
たぶん顔に出ていたのだろう。
「東雲さんって、盤を抱え込まないんだよね」
紗英が言う。
「でも、芯はずっと渡してない」
「自分は、まだそこまで行かない」
「行かないね」
「はっきり言うな」
「はっきりしてるし」
それから、少しだけやわらかく続けた。
「でも今日、湊は前より見えてる」
湊はもう一度、東雲の席を見る。
対局を終えた本人は、静かに記録端末を閉じていた。勝った顔にも、満足した顔にも見えない。ただ、次も同じように打つのだろうと思わせる顔だった。
壁、だと思う。
高いとか、遠いとか、そういう曖昧なものではない。
どこが違うのかが見えるぶんだけ、はっきりした壁だった。
「湊」
「何」
「次は、持ちすぎないことかもね」
「持ちすぎる?」
「うん。全部抱えると、逆に細くなるから」
その言葉は、すぐには飲み込めなかった。
けれど東雲の碁を見たあとだと、分からないとも言い切れない。
少し渡す。
でも崩れない。
そのためには、盤のどこが芯なのかを、自分で決められないといけない。
まだ無理だ、と思う。
でも、次に見るべきものは分かった。
湊は対局室を出る前に、東雲の背中をもう一度だけ見た。
追いつける、とはまだ思えない。
それでも、ただ強い人を見るときみたいに目を逸らしたくはならなかった。
どこが遠いのかが、少しだけ見えたからだ。




