第五話 渡さない
次の対局席に着くまで、朝倉湊は何度も同じ言葉を頭の中でなぞっていた。
盤を、人に渡さない。
それだけだった。
形を決めるでもない。勝ち筋を読むでもない。もっと大きなことは、まだ持てない。だから今日はそれだけにした。
向かいの相手は三段だった。
年は上だが、東雲ほど完成している感じはない。けれど、座っただけで分かる。甘い手を待つ人間ではなかった。
開始の合図。
先手AIが打つ。後手AIが応じる。
盤はまた、人間より先に動き始める。
湊は右上から流れていく石の向きを見た。
右辺に一つ、上辺に一つ。まだ柔らかい。固まりきる前の空気が残っている。
先手人間の番が来る。
いつもの湊なら、ここでまず崩れない手を探す。
薄くならないこと。あとで困らないこと。咎められにくいこと。
だが今日は、その前に思い出す。
盤を、人に渡さない。
湊は右辺に打った。
固める手ではない。相手にすぐ痛打されるほどでもない。けれど、次にどちらが盤の話を進めるかを曖昧にしない位置だった。
向かいの三段は少しだけ考えた。
その短い間だけで、湊の呼吸は昨日より深くなる。
中盤に入るまで、大きな戦いは起きなかった。
だが静かな局面ほど、手の意味ははっきり出る。
相手は何度か、湊の石を細くしようとした。
無理に攻めるのではなく、選ばせるような手だった。受ければ少しずつ後ろへ下がる。前へ出ればどこかが薄くなる。
湊は一度、受けの手を打ちかけた。
そこで止まる。
それを打てば、たぶんすぐは困らない。
だが、盤は向こうのものになる。
湊は手を引いた。
別の場所へ置く。自分の石に呼吸を残しながら、相手にも楽をさせない手だった。
正しいかは分からない。
でも少なくとも、自分で選んだ。
そのあと、AIの一着が中央にかかる。
盤が少し熱くなる。
向かいの三段はそこで前へ出た。
強くはないが、引けば押され続ける種類の一手だった。
湊はその局面で、ようやく気づく。
盤を渡さない、というのは、ずっと前に出ることではない。
どこで受け、どこで譲らず、どこだけは自分で決めるかを手放さないことなのだと。
だから今度は受けた。
ただし、細くならない受けだった。
相手の石を完全には自由にせず、こちらの外側にもまだ温度を残す。小さいが、息を失わないための受け。
それを置いた瞬間、盤の上から「仕方なく受けた」感じが少しだけ消えた。
終盤は細かかった。
一目。二目。半目。
大きく崩れた場所はない。その代わり、どこで盤の主導権を渡したかが、そのまま目数になる碁だった。
湊は最後まで打ち切った。
途中で一度、もっと安全な手が見えた。けれどそこへ逃げなかった。目先の形を整えるより、自分の石が最後まで働く方を選んだ。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
黒一目勝ち。
ほんのわずかだった。
勝った、と思うより先に、湊は盤を見た。
劇的な一手はなかった。相手が大きく崩れた場面もない。ただ、今日は途中で盤を明け渡さなかった。その差だけが最後に残った気がした。
頭を下げて席を立つ。
廊下へ出ると、胸の奥にまだ少しだけ張りが残っている。
「勝ったじゃん」
藍原紗英がいた。
壁にもたれず、今日はまっすぐ立っている。
「見てたのか」
「最後だけ」
「都合いいな」
「一番大事なところで来たから」
湊は少し迷ってから言う。
「……盤、渡さないようにした」
「うん」
紗英はすぐにうなずいた。
「まだ細いけど、今日は途中で人の碁にならなかった」
「細いは余計だろ」
「余計じゃない。そこ大事」
でも、と紗英は続ける。
「その細さのままでも、手放さなかったのは前よりいい」
その言葉は、褒められているのかどうか曖昧だった。
けれど昨日みたいな苦さはない。少なくとも、どこが良くてどこが足りないかが、少しだけ自分でも見えている。
湊は小さく息をつく。
「次は」
と紗英が言う。
「渡さない、の次だね」
そこまで言って、彼女は視線を対局室の方へ向けた。
湊もつられて振り向く。
遠くの席で、東雲朔がちょうど着席するところだった。座るだけで、あの人の盤になる。
さっき勝った一目が、急に小さく見える。
でも小さいから消えるわけではない。
盤を渡さない。
今日はそれが残った。
次は、その上に何を置くのかだ。




