表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIと打つ、その次の一手  作者: 柚木 いと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/23

第四話 残したいもの

次の対局まで、三十分あった。


 朝倉湊は会場の裏手にある細い通路で、壁にもたれていた。

 人の行き来はあるが、立ち止まる者は少ない。負けた者は下を向いて通り、勝った者は次の盤へ急ぐ。誰も長くは留まらない場所だった。


「そんなところで固まっていると、石みたいだな」


 声がして、湊は顔を上げた。


 小田切だった。


 指導碁のときと同じ、急がせない声だった。

 だが、逃がす気もない声でもある。


「見てました?」

「少しは」


 少し、の中にかなり入っている顔だった。


 小田切は湊の横に立ち、通路の先を見る。

 すぐには本題に入らない。その間が、かえって苦しい。


「藍原の碁を見たそうだな」

「……はい」

「どうだった」

「最初から手がありました」


 答えると、自分でも情けなくなった。

 そんなことは見れば分かる。もっと別の言い方があったはずなのに、うまくまとまらない。


 だが小田切は笑わなかった。


「そうだな」

「自分は、ああならないです」

「すぐそこへ飛ぶのは早い」


 湊は黙る。


「おまえは昔から、嫌な形には気づく」

「はい」

「そこは悪くない。むしろ大事だ」

「でも、その先がないです」


 言ってしまうと、少し楽になった。

 認めたくないことほど、口に出したあとの方が輪郭が出る。


 小田切はうなずいた。


「まず、自分が何を嫌がるかを見なさい」

「それは、よく言われます」

「言っている」


 そこで、少しだけ間があいた。


「だが、それだけでは細くなる」

「……紗英もそう言いました」

「だろうな」


 小田切は壁から背を離した。


「嫌な流れを避けるのは、守りだ。守りは必要だ。だが守りだけでは、盤を人に渡す」

「じゃあ、どうすれば」

「一つでいい」


 小田切は、はっきり言った。


「次の対局で、自分が何を残したいかを一つだけ決めて入れ」


 湊はその言葉を、そのまま受け止めきれなかった。


「一つだけでいいんですか」

「最初から三つも四つも持てるなら苦労しない」

「……それはそうですけど」

「欲張るな。まず一つだ」


 通路の向こうで、誰かの笑い声がして、すぐ消えた。

 会場全体はまだ張っているのに、こういう断片だけは妙に日常の音に聞こえる。


「何を残したいか」

 湊は小さく繰り返す。

「たとえば、どんな」

「おまえが決めることだ」


 小田切はすぐには答えを与えなかった。


「呼吸でもいい。外の厚みでもいい。主導権でもいい。あるいは、最後まで細くしないことでもいい」

「最後まで細くしない……」

「おまえには、そっちの方が先かもしれないな」


 その言い方が、少しだけ悔しかった。

 でも否定はできなかった。


 湊は対局室の方を見る。

 まだ始まっていない次の一局が、もう向こうで待っている気がした。


「先生」

「何だ」

「決めたものを、途中で守れなかったら」

「守れなくてもいい」

「いいんですか」

「途中で失うことと、最初から持たずに座ることは違う」


 小田切はそこで、初めて湊の方を見た。


「失ったなら、どこで手放したかが残る。次に直せる。だが、最初から何も持たずに座ると、負け方だけが残る」


 その言葉は、静かだった。

 静かなのに、逃げ場がなかった。


 負け方だけが残る。


 たしかにそうだった。

 今までの湊は、悪くないまま、薄いまま、気づけば負けていた。何が欲しかったのかが曖昧だから、何を失ったのかも曖昧なまま終わる。


「行ってこい」

 小田切が言う。

「一つだけ持って座れ」

「……はい」


 湊は歩き出しかけて、少しだけ止まった。


「先生」

「何だ」

「自分、次は」

「うん」

「盤を、人に渡さないでいたいです」


 小田切はうなずいた。


「それでいい」


 短い返事だった。

 だが、その短さのぶんだけ、まっすぐ残った。


 会場へ戻る。

 席に着く前、湊は一度だけ右手を見た。


 逃げる手ではなく。

 崩れないだけの手でもなく。


 盤を、人に渡さない。


 今日はそれだけ持って座る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ