第四話 残したいもの
次の対局まで、三十分あった。
朝倉湊は会場の裏手にある細い通路で、壁にもたれていた。
人の行き来はあるが、立ち止まる者は少ない。負けた者は下を向いて通り、勝った者は次の盤へ急ぐ。誰も長くは留まらない場所だった。
「そんなところで固まっていると、石みたいだな」
声がして、湊は顔を上げた。
小田切だった。
指導碁のときと同じ、急がせない声だった。
だが、逃がす気もない声でもある。
「見てました?」
「少しは」
少し、の中にかなり入っている顔だった。
小田切は湊の横に立ち、通路の先を見る。
すぐには本題に入らない。その間が、かえって苦しい。
「藍原の碁を見たそうだな」
「……はい」
「どうだった」
「最初から手がありました」
答えると、自分でも情けなくなった。
そんなことは見れば分かる。もっと別の言い方があったはずなのに、うまくまとまらない。
だが小田切は笑わなかった。
「そうだな」
「自分は、ああならないです」
「すぐそこへ飛ぶのは早い」
湊は黙る。
「おまえは昔から、嫌な形には気づく」
「はい」
「そこは悪くない。むしろ大事だ」
「でも、その先がないです」
言ってしまうと、少し楽になった。
認めたくないことほど、口に出したあとの方が輪郭が出る。
小田切はうなずいた。
「まず、自分が何を嫌がるかを見なさい」
「それは、よく言われます」
「言っている」
そこで、少しだけ間があいた。
「だが、それだけでは細くなる」
「……紗英もそう言いました」
「だろうな」
小田切は壁から背を離した。
「嫌な流れを避けるのは、守りだ。守りは必要だ。だが守りだけでは、盤を人に渡す」
「じゃあ、どうすれば」
「一つでいい」
小田切は、はっきり言った。
「次の対局で、自分が何を残したいかを一つだけ決めて入れ」
湊はその言葉を、そのまま受け止めきれなかった。
「一つだけでいいんですか」
「最初から三つも四つも持てるなら苦労しない」
「……それはそうですけど」
「欲張るな。まず一つだ」
通路の向こうで、誰かの笑い声がして、すぐ消えた。
会場全体はまだ張っているのに、こういう断片だけは妙に日常の音に聞こえる。
「何を残したいか」
湊は小さく繰り返す。
「たとえば、どんな」
「おまえが決めることだ」
小田切はすぐには答えを与えなかった。
「呼吸でもいい。外の厚みでもいい。主導権でもいい。あるいは、最後まで細くしないことでもいい」
「最後まで細くしない……」
「おまえには、そっちの方が先かもしれないな」
その言い方が、少しだけ悔しかった。
でも否定はできなかった。
湊は対局室の方を見る。
まだ始まっていない次の一局が、もう向こうで待っている気がした。
「先生」
「何だ」
「決めたものを、途中で守れなかったら」
「守れなくてもいい」
「いいんですか」
「途中で失うことと、最初から持たずに座ることは違う」
小田切はそこで、初めて湊の方を見た。
「失ったなら、どこで手放したかが残る。次に直せる。だが、最初から何も持たずに座ると、負け方だけが残る」
その言葉は、静かだった。
静かなのに、逃げ場がなかった。
負け方だけが残る。
たしかにそうだった。
今までの湊は、悪くないまま、薄いまま、気づけば負けていた。何が欲しかったのかが曖昧だから、何を失ったのかも曖昧なまま終わる。
「行ってこい」
小田切が言う。
「一つだけ持って座れ」
「……はい」
湊は歩き出しかけて、少しだけ止まった。
「先生」
「何だ」
「自分、次は」
「うん」
「盤を、人に渡さないでいたいです」
小田切はうなずいた。
「それでいい」
短い返事だった。
だが、その短さのぶんだけ、まっすぐ残った。
会場へ戻る。
席に着く前、湊は一度だけ右手を見た。
逃げる手ではなく。
崩れないだけの手でもなく。
盤を、人に渡さない。
今日はそれだけ持って座る。




