第三話 最初からある手
午後の対局室は、午前より少しだけ乾いていた。
同じ会場のはずなのに、空気が違う。
一局終わった人間が増えたからだろう、と湊は思った。勝った者も負けた者も、一度盤の中に入って戻ってきたあとでは、座っているだけでもどこか静かになる。
観戦席の後ろから、湊は藍原紗英の対局を見ていた。
登棋戦の予選二回戦。
紗英は先手側だった。盤の向こうにいる相手は、湊より一つ上の初段。勝ち上がり表では名前を見たことがある。派手さはないが、形を崩しにくいタイプの棋士だった。
先手AIが打つ。
右上だった。
午前、自分の盤でも見た位置だ、と湊は思う。
後手AIが応じる。そこまでは似ている。だが、そこから先の空気が違った。
先手人間となった紗英は、間を置かなかった。
迷いがない、というと少し違う。
ちゃんと盤を見ている。相手の石も、AIが残した含みも、先の薄さも見ている。見たうえで、それでも手が前へ出る。
角をすぐ固める手ではなかった。
右辺に呼吸を残しながら、上辺へ向かう力を先に作るような置き方だった。地を取りにいくより、盤の温度を自分の方へ傾けるための一手に見える。
湊は無意識に指先を握っていた。
同じ序盤でも、こうなるのか、と思う。
自分が打つときは、盤に置いていかれないための手になる。
紗英が打つときは、盤の方を先にこちらへ引き寄せる手になる。
後手人間が応じる。
堅い。悪くない。相手も軽々しく盤を渡さない。
それでも、次のAIの手が入ったあと、盤の主導権はまだ紗英の側に残っていた。
いや、残っているというより、渡していない。
紗英の二手目も早かった。
右辺の石を守り切るのではなく、少しだけ外へ利く場所を取る。相手の形を直接責めるほど強くはないが、楽を許さない位置だった。
湊はそこで、午前の自分の碁を思い出した。
似たような場所に、似たような温度で手を伸ばした瞬間があった。
けれど、自分の手は途中で細くなった。踏み込んだあと、その責任を持ち切れず、すぐ壊れない方へ寄った。
紗英は違う。
無茶をしているわけではない。
薄いところはちゃんと薄いまま見ている。
それでも、その薄さごと自分の碁にしている。
「欲しい形が先にあるんだよな……」
声に出すつもりはなかった。
でも小さく漏れた。
盤の上で、紗英は相手に考えさせていた。
一手ごとに、相手の時間が少しだけ長くなる。
大きな咎めがあるわけではない。けれど、「どこまで受けるか」「どこから反発するか」を決めさせられているのは相手の方だった。
中央が熱を持ち始める。
AIの一着が、上辺から中央へつながる道を作る。
そこに紗英は、逃げずに乗った。
相手の薄みを見ながら、自分の石にもまだ余白を残す。
厚くはない。完成もしていない。だが、次にどちらの石を働かせたいかが、一目で分かる打ち方だった。
見ているだけで息が詰まる。
湊は、強い碁を見るといつも少し苦しくなる。
きれいだからではない。むしろ逆だ。盤の上で、その人間が何を嫌って、何を取りにいっているかが、はっきり見えるからだ。自分にそれが足りないと、同時に思い知らされる。
中盤のある局面で、後手人間が少しだけ強く踏み込んだ。
形を荒らし、局面を細かくしたい手だった。
湊は思わず前のめりになる。
そこは、自分なら受ける。
崩さない方へ回る。石の息を数え、薄くならないように整え、被害を小さくする。そうするはずだった。
だが紗英は受けなかった。
受ける前に、別の場所を打った。
中央の温度をさらに一段だけ上げる一手。
相手の踏み込みを完全に無視はしていない。けれど、その場の小さな損得より、「どちらがこの盤の流れを決めるか」を先に取りにいった。
対局席の向こうで、相手が初めて顔を上げた。
そこで湊は、少しだけ鳥肌が立つのを感じた。
ああ、と思う。
この人は、怖い。
声が強いわけでもない。
表情がきついわけでもない。
ただ、盤の上で譲る場所を自分で決めている人間の怖さがある。だから相手は、思ったより早く「自分の打ちたい碁」ではなくなる。
もっとも、紗英は完璧ではなかった。
AIの次の一手が入ったあと、中央の石は少しだけ重くなった。
自分から熱を上げたぶん、軽くまとめるには一拍遅い形になる。後手人間もそこを見逃さず、丁寧に追う。
湊は、その局面で初めて息をついた。
苦しくなるのは、紗英も同じなのだ。
違うのは、苦しくなったあとだった。
紗英は細くならない。
安全な手だけに寄らない。
石の重さを認めたうえで、どこを切り捨て、どこを働かせるかを自分で決める。
その判断が正しかったかどうかは、まだ終局まで分からない。
でも少なくとも、盤の責任を相手に渡していない。
終盤に入るころには、形勢ははっきりしていなかった。
大きく優勢でもない。苦しくないわけでもない。だが、流れはまだ紗英の側にあった。ヨセに入ってもなお、「どこを先に打つか」を相手へ押しつけていない。
結果は、黒一目半勝ち。
大勝ではなかった。
押し切ったというより、最後まで自分の碁を手放さなかった結果、わずかに前へ出た、そんな勝ち方だった。
対局が終わり、観戦席から人が散る。
湊は少し遅れて廊下へ出た。
自販機の前ではなく、窓際だった。
紗英は壁に寄りかかるでもなく、ただ立っていた。対局が終わったあとにありがちな、勝った人間の緩みがない。まだ盤の中のどこかを見ている顔だった。
「勝ったな」
「見てたんだ」
「途中から」
昨日と似たやり取りなのに、立場が逆だと思うと少し変な感じがした。
紗英は短く息をつく。
「よくない」
「勝ったのに」
「勝ったけど、よくない」
「中央か」
「そこも。あと、その前」
湊は少しだけ笑いそうになる。
この人は、自分で打ちたい手を持っているくせに、自分の手に一番容赦がない。
「でも、持ち切った」
「まあ」
「俺なら途中で受けてた」
「うん、受けてたと思う」
「はっきり言うな」
「はっきりしてるから」
紗英は窓の外を見たまま言った。
「湊は、崩れないことを先に考える」
「悪いことじゃないだろ」
「悪くはない。でも、それだと盤が他人のものになる」
「……昨日も言ってたな」
「昨日より今日の方が分かりやすかったから」
湊は返せなかった。
対局を見ていて、ずっと思っていた。
紗英だって怖いはずなのだ。石が薄くなる瞬間も、中央が重くなる瞬間も、見えていないわけがない。それでも前へ出るのは、怖くないからではなく、引いたときに失うものが先に分かっているからだ。
「どうしたら、そうなるんだ」
気づけば、そう聞いていた。
紗英は少しだけ目を細める。
「何が」
「最初から、打ちたい手があるみたいに打てる」
「みたいに、じゃなくて、あるから」
「だからそれが」
うまく言葉にならない。
羨ましいのか、悔しいのか、自分でもまだ整理できていない。
紗英は少し考えてから、言った。
「別に、最初から全部見えてるわけじゃない」
「でもあるんだろ」
「ある。これだけは嫌だ、っていうのと、こういう形にしたい、っていうのが」
湊はその言葉を黙って聞く。
「たぶん湊は、嫌なのは見えてる」
「……うん」
「でもその先が薄い」
「分かってる」
「分かってるだけじゃ、次の手にならない」
きつい言い方なのに、不思議と腹は立たなかった。
もう自分でも、そこが空白だと知っているからだ。
「じゃあ、どうする」
と湊は聞く。
「その薄いの」
紗英はすぐには答えなかった。
窓の外の光が少し傾き、会場の白い壁に夕方の色が差し始めている。
「自分が何を嫌がるか、ちゃんと見る」
「それはしてる」
「足りない」
「まだ足りないのかよ」
「足りない。そのあとで、じゃあ何を残したいかを決める」
そこで彼女は、ようやく湊を見た。
「嫌な流れを避けるだけじゃ、碁って細くなるから」
その言葉は、昨日より深く刺さった。
盤を見てから聞いたからだ。実際にそう打つ人間の手を見たあとだったからだ。
嫌な流れを避けるだけじゃ、細くなる。
たしかにそうだった。
昨日の自分の碁も、午前の観戦で胸が詰まった理由も、全部その一言の中に入っている気がした。
「湊」
「何」
「次、自分の対局あるでしょ」
「ある」
「一個でいいから決めて入った方がいい」
「何を」
「何を嫌がるか、じゃない」
紗英は言う。
「何を残したいか」
廊下の向こうで、次の対局を知らせる声がした。
人が動き始める。椅子の脚が床を擦る音が遠くから届く。
紗英はそれを聞いて、壁から身体を離した。
「じゃ、行く」
「おう」
「あんまり人の碁見て、分かった気にならないで」
「最後にそれ言うのかよ」
「大事だから」
彼女はそれだけ言って、振り返らずに歩いていった。
湊はその背中を見送る。
細い。けれど、盤の上では少しも細くない背中だった。
何を残したいか。
言葉にしてみると、まだうまく掴めない。
それでも、その問いを持ったまま次の席へ行くのと、持たずに座るのとでは、たぶんもう同じにならない。
湊は自分の右手を見た。
石を置く手。逃げる手。ためらう手。
その手で、次は何を残したいのか。
まだ答えはない。
でも、問いだけは初めて、自分のものになりかけていた。




