第二十話 上への一手
席に着いたとき、朝倉湊は右辺から上辺までを一続きで見ていた。
石を残す。
相手に受けさせる。
中央に息を通す。
そのあと、上辺を押さえる。
今日は、そこまで持って座る。
先手AI、後手AI。
序盤は静かに進み、右側に黒石が残った。湊はそこへ一手足す。右辺の呼吸を消さず、中央へ出る道も残す位置だった。
向かいの相手は二段。
盤を見て、少し考えてから別の大きい場所へ回る。
湊は追わなかった。
もう一手。
それで相手はこの石を放っておけなくなる。
湊は右辺に置いた。
相手は受けた。
軽い受けだったが、それで十分だった。右辺の石はただ残っているだけではなくなった。盤の中で、相手の手を一度そこへ向けさせた。
ここで前なら迷っていた。
右をもう少し固めるか。別の大場へ走るか。
だが今日は、その次が決まっている。
中央に息を通す。
湊は右辺の近くには戻らず、その石から中央へつながる位置へ打った。
黒はそこで切られにくくなり、白もその筋をすぐには無視しづらくなる。
向かいの二段は中央を浅くさわった。
黒の息を細くしておきたいのだと分かる。前の湊なら、その手に反応して中央ばかり見ていた。
だが今日は違う。
黒の息は、まだ切れていない。
右辺の石もまだ働いている。
なら、その次は上辺だ。
湊は上辺に回った。
大きい場所だった。
ただ広いだけではない。白に先に打たれると黒の中央の筋が働きにくくなる場所でもある。そこを先に押さえることで、右辺から中央へ通した息が上でも意味を持つ。
置いたあとで、湊はようやく分かった。
今日は、手が前へ進んでいる。
右辺だけ。
中央だけ。
そうやって一つずつ守っていたときとは違う。右の石を残した意味が、中央を経由して上辺までつながっている。
中盤、白はその上辺を浅く荒らしに来た。
嫌な手だった。放っておくと黒の形が薄く見える。すぐに受けたくなる。
それでも湊は、盤を順番に見た。
右辺の石はまだ働いている。
中央の息もまだ残っている。
上辺は押さえたばかりで、白に軽く入らせたくない。
なら、ここで受ける。
ただし、縮む受けではなく、白の石を軽くさせない受け。
黒の上辺を保ちながら、中央の筋も切らない位置に置く。
大きな手ではない。
それでも、その一手で白はもう一度考えた。
湊はその短い沈黙に、少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。
右辺で一度。中央で一本。上辺でさらに一度。
今日は、自分の石がちゃんと相手に届いている。
終盤まで行くと、差はやはり細かかった。
白も簡単には崩れない。
黒も大きく得したわけではない。
けれど今日は、相手に受けさせて作った一手ぶんの余裕を、上辺を押さえることに使えた。その差が、最後に残る。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
黒二目半勝ち。
席を立つ前に、湊は盤を見た。
右辺の石。
中央の息。
上辺の押さえ。
今日は、その順番が最後まで切れなかった。
廊下へ出ると、思っていたより呼吸が浅いことに気づく。
勝っても、まだ慣れない。
「今日はちゃんと上へ行けたね」
藍原紗英の声だった。
湊は振り向く。
「見てたのか」
「途中から」
「もう分かってる」
紗英は少しだけ笑う。
「右で受けさせて、中央に息を通して、そのあと上を押さえた」
「うん」
「今日はそこが切れなかった」
「そこまでは」
湊がそう言うと、紗英はすぐにうなずいた。
「そこまでは、ね」
「まだあるのか」
「あるよ」
即答だった。
「今日は上に行けた」
と紗英が言う。
「でも、そのあとでどこまで押さえるかは、まだ少し重い」
「重い」
「取りにいけるところまで見えてるのに、ちょっと抱えた」
湊は少し考えて、苦く笑った。
「……たしかに」
「今日は勝ったから目立たなかっただけ」
「厳しいな」
「勝ったときの方が厳しく見るでしょ、普通」
その言い方は腹が立たない。
むしろ、少しだけありがたかった。
今日はたしかに、行き先までは持てた。
右辺の石を残し、中央に息を通し、その息を上辺に使えた。
でも、そのあとでどこまで押さえて、どこで止めるのかは、まだ少し重かった。
湊は会場の方を見た。
一つずつでいい。
そう思えるのは、たぶん前よりちゃんと次が見えているからだ。




