第十八話 通した息の先
次の対局でも、朝倉湊は右辺から入った。
石を残す。
相手に一度受けさせる。
そのあとで中央に息を通す。
そこまでは、もう前より迷わない。
先手AI、後手AI。
右辺に黒石が残り、湊はそこへ一手足した。さらにもう一手で、相手が無視しにくい並びを作る。向かいの相手は二段。少し考えてから、その石に受けた。
ここまではよかった。
湊はそのあと、中央へ一手打つ。
右辺の石が中央に利く形になる。切られにくい。相手もそこを放って別の大場へ走りにくい。
前の一局と同じように、盤の中で一本の筋が通る。
問題は、その次だった。
相手は中央を浅くさわってから、上辺へ回った。
黒の息はまだ残っている。右辺の石も働いている。なら、ここで何を取るべきか。
上辺に回って地を取るか。
中央をもう少し厚くしておくか。
相手の石を軽くさせない位置を先に押さえるか。
どれも盤にありそうだった。
どれも完全には外れていないように見えた。
そのせいで、湊の手が一つに定まらない。
迷った末に、湊は中央へもう一手足した。
悪い手ではない。黒の息はさらに深くなる。中央も切られにくい。あとで困りにくい形だった。
だが、置いた瞬間に分かった。
守りに寄りすぎた。
さっき相手に受けさせて作った一手ぶんの余裕を、黒はそこで自分の息を深くすることだけに使った。
盤の外へ広がるはずだった利きが、その場で止まる。
AIの一手が入る。
白はそのあいだに上辺の形を整え、次の人間の手で左側へも目を配る。
黒の石は悪くない。
右辺の石も中央も、ちゃんと残っている。
なのに、盤の大きい場所を先に決めているのは白の方だった。
湊は盤を見ながら、喉の奥が少し乾くのを感じた。
足りない。
崩れていない。
息もある。
けれど、勝ちに近づく手が薄い。
中盤の後半、湊は一度だけ前へ出た。
上辺に回った白の石を少し窮屈にする位置だった。だが、それは一手遅かった。先に形を整えられたあとでは、白は無理なく受けられる。
もう少し早くそこを押さえられていれば。
中央の息を得たあとで、すぐそこへ回れていれば。
そう思う局面が二度あった。
終盤まで行くと、碁はまた細かくなる。
右辺の黒石は最後まで働いた。
中央にも利いていた。
それでも、その息を地にも先手にも変え切れなかったぶんだけ、白の方に半歩ずつ余裕が残る。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
白一目半勝ち。
席を立つ前に、湊はしばらく盤を見た。
今日は、何が駄目だったかが前よりはっきりしている。
右辺の石は残った。
中央にも息を通せた。
そこまではよかった。
でも、そのあとで何を取りにいくのかを決め切れなかった。
廊下へ出ると、少し遅れて藍原紗英が来た。
「嫌な負け方だね」
と彼女は言った。
湊は苦く笑う。
「分かる?」
「分かる。今日は崩れてないから余計に」
紗英は壁に寄りかからず、そのまま立っている。
「中央に息は通せてた」
「うん」
「右の石も働いてた」
「うん」
「でも、そのあと中央をもう一回守った」
「うん」
「取るものが決まってなかったから」
湊は小さく息を吐いた。
「上辺だったかもしれない」
「たぶんね」
「先に回るべきだった」
「たぶん」
「たぶん、ばっかりだな」
「今日はそういう碁だから」
その言い方に、少しだけ救われる。
駄目だった場所は見えている。まだ言い切れないだけで、盤のどこを逃したかはもう分かっている。
「次は」
と紗英が言う。
「息を通したあと、どこを大きくするのかまで持って座った方がいい」
湊はすぐには答えなかった。
右辺の石。
中央の息。
その先で、上辺だったのか、先手だったのか、相手の形を窮屈にする一手だったのか。そこがまだ曖昧だった。
それでも、一つ前よりは遠くまで見えている。
盤の中で息を通すだけでは足りない。
その息を、次の一手でどこへ使うのか。
今日の負けは、そこを教えていた。
湊は対局室の方を見た。
負けた。
だが、何を持てば次の一局で前へ進めるかは、もう前ほどぼやけていなかった。




