第十七話 中央の呼吸
席に着いたとき、朝倉湊は右辺を先に見た。
石を残す。
働かせる。
相手に一度受けさせる。
そのあとで、中央に息を通す。
今日はそこまでを持って座る。
先手AI、後手AI。
序盤は静かに進み、右側に黒石が一つ残った。何度か見てきた並びだ。前までは、その石が苦しくなる前に守ることばかり考えていた。だが今日は違う。その石を残したあと、どこへ向けて働かせるかまで決めている。
先手人間の番で、湊は右辺へ一手足した。
固め切る手ではない。右辺の呼吸を消さず、中央へ出る道も残す位置だった。
向かいの相手は二段だった。
盤を見て、すぐには応じず、上辺の大きい場所へ回った。
前なら、そこで気持ちが揺れていた。
上辺を取られたくない。遅れたくない。そう思って盤全体を追いかけにいき、右辺の石まで軽くしていたはずだった。
だが今日は、先に右を見る。
もう一手入れば、相手はこの石を放っておけなくなる。
湊はその場所に置いた。
強く攻める手ではない。
けれど、このまま無視されれば右辺から中央へ黒の筋が残る。相手の石も、あとで少し動きにくくなる。盤の右側に、「見ておかないとあとで嫌だ」と言わせる並びができる。
向かいの二段は、そこで初めて考える時間を使った。
湊はその短い沈黙に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
届いた、と思う。
相手は受けた。
軽い受けだったが、打たせた意味はあった。
そこで湊は盤を見直す。
前ならここで迷っていた。右をもう少し整えるか、別の大きい場所へ回るか、受けさせたことで満足して次の一手が細くなることも多かった。
だが今日は、取るものが決まっている。
中央に息を通す。
湊は右辺の近くには戻らず、その石から中央へつながる位置へ打った。
地を囲う手ではない。すぐ得をする手でもない。だが、その一手で右辺の石はただ残っているだけの石ではなくなった。中央で切られにくくなり、相手もそこを放って別の大場へ走りにくい形になる。
向かいの二段が、また盤の上で止まった。
湊はそこでようやく、自分の打っている順番が崩れていないと分かった。
右辺を残す。
相手に受けさせる。
そのあとで中央に息を通す。
今日は、手の意味が前の一手から切れていない。
中盤に入ると、相手はその中央の息を浅くしに来た。
当然だと思った。右辺の石そのものより、その石が中央に利いていることの方が嫌なのだ。
前へ出たい気持ちはあった。
もう一度利かせたい。もう一度相手に受けさせたい。そう思う。だが、今日はそこを急がなかった。
もう得たいものは決まっている。
中央に息が通っているなら、ここで欲張る必要はない。
湊は受けた。
ただし、縮む受けではなかった。相手の石を楽にせず、こちらの中央の息も消さない位置だった。大きな手ではない。けれど、その一手で右辺から中央へ残した筋は切れなかった。
そのあと先手AIの一着が入る。
黒の中央は完全に厚くなったわけではないが、さっきまでより一段落ち着いた。右辺の石も、もうただの弱い石ではない。盤の中で役目を持った石として残っている。
湊はそこで、ようやく深く息を吸えた。
大きく勝っているわけではない。
相手も崩れていない。
それでも今日は、何を見て打っているのかがはっきりしていた。そこが切れないだけで、盤の苦しさが少し違う。
終盤まで行くと、差はやはり細かかった。
一目。半目。二目。
大きな失着はない。だが今日は、相手に受けさせたあと、その一手をちゃんと中央に生かせた。その差が、最後の数目に残る気がした。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
黒半目勝ち。
小さい。
それでも湊には、前の半目勝ちより意味のある勝ちに見えた。
席を立つ前に、盤をもう一度見る。
右辺の石。
そこから中央へ通した息。
今日はその二つが、終局まで切れなかった。
廊下へ出ると、肩の力がゆっくり抜けた。
「今日は、そのあとがあった」
藍原紗英の声だった。
湊は振り向く。
「見てたのか」
「途中から」
「そこはもういいよ」
「そうして」
紗英は少しだけ笑った。
「受けさせたあと、ちゃんと中央に息を通せてた」
「一応」
「一応じゃない。今日はそこ、ちゃんと自分で決めてたでしょ」
「……うん」
口に出すと、少し照れくさい。
でも今日は、勝ったことより先に、その一手の意味を自分で言える。
「前より、石が途中で軽くならなくなった」
と紗英が言う。
「でも」
「でも?」
「その息で、次に何をするかはまだ薄い」
湊は苦笑した。
「そこまで行くのか」
「勝ったから」
その言い方は少し刺さった。
でも、嫌ではなかった。
今日は、相手に受けさせただけで終わらなかった。
中央に息を通すところまでは行けた。
なら次は、その息をどこに使うのかが問われる。
盤全体はまだ遠い。
それでも、一手の意味は前より少しずつ自分のものになってきていた。




