第9話 夏が終わる前に
八月の終わり。
沖縄に来てから、二か月以上が過ぎていた。
最初は、ただの出張だった。
仕事をして、ホテルへ帰る。
それだけの毎日になるはずだった。
なのに今は――
ひろしのスマートフォンには、三人の名前が並んでいる。
なおみ。
しょうこ。
りな。
誰か一人を選ぶことから、逃げ続けていた。
でも、もう時間がなかった。
大阪へ戻る日が決まったからだ。
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「帰るんだね」
なおみは静かに言った。
「はい。来週には」
二人は、いつもの海辺にいた。
夕暮れの海は、夏の終わりを知らせるように少しだけ寂しく見えた。
「ひろし君」
「はい」
「私、ずっと考えてた」
なおみは笑った。
「ひろし君といると、安心する」
「……」
「仕事で嫌なことがあっても、ひろし君と話すと落ち着くの」
そして、少しだけ視線を落とす。
「だから……帰ってほしくないって思ってる」
ひろしは胸が締めつけられた。
「でもね」
なおみは続ける。
「無理に私を選んでほしいとは思わない」
「なおみさん……」
「好きな人には、好きな人を選んでほしいから」
なおみは笑った。
その笑顔が、ひろしには一番苦しかった。
「最後の日まで、普通に一緒にいてくれる?」
「もちろんです」
「ありがとう」
なおみはひろしの肩に頭を預けた。
「……もう少しだけ」
「はい」
その言葉だけで、十分だった。
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翌日。
しょうこは、ひろしを人気の少ない海辺へ連れてきた。
「ここ、覚えてる?」
「もちろん」
「最初に二人で来た場所」
しょうこは砂浜に座った。
「私さ」
「うん」
「ひろしが帰るって聞いてから、ずっとムカついてる」
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「いや……」
「だから謝んなって」
しょうこは笑った。
そして、ひろしの手を握る。
「私、たぶん初めてなんだよ」
「何が?」
「こんなに誰かに帰ってほしくないって思ったの」
ひろしは黙っていた。
「大阪帰っても、連絡して」
「するよ」
「毎日」
「毎日は……」
「嫌?」
「いや、嫌じゃないけど」
「じゃあ決まり」
しょうこは満足そうに笑った。
そして突然、ひろしの肩へ頭を預けた。
「……ねえ」
「うん」
「もし私が、もっと素直だったら」
「?」
「ひろしのこと、もっと困らせてたかも」
「もう十分困ってるよ」
「ふふっ」
しょうこは笑った。
でも、その目には少し寂しさがあった。
「帰っても、忘れんなよ」
「忘れない」
「絶対?」
「絶対」
二人はしばらく手を繋いだまま、海を見つめていた。
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そして――
その夜。
りなから電話が来た。
「ひろしさん」
「うん」
「明日、会える?」
「会えるよ」
「二人きりで」
その声には、いつもと違う緊張があった。
「分かった」
「ありがとう」
少し沈黙。
「……私ね」
「うん」
「明日、ちゃんと伝えるから」
電話が切れた。
ひろしは窓の外を見た。
遠くに見える沖縄の夜。
明日で何かが変わる。
そんな予感がした。
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翌日の夜。
りなは、ひろしを海辺の小さな場所へ連れてきた。
誰もいない。
波の音だけが聞こえる。
「ここね」
「うん」
「私が一番好きな場所」
りなは海を見ながら言った。
「ここで、ひろしさんと出会ったから」
ひろしは隣に立った。
「りな」
「うん」
「俺も話したい」
「……先に私が言っていい?」
「もちろん」
りなは深呼吸した。
「私、ひろしさんが帰るって聞いたとき、すごく怖かった」
「……」
「もう会えなくなるんじゃないかって」
そして、ひろしを見る。
「でも、もっと怖いことがあるって分かった」
「何?」
「ひろしさんが、私じゃない誰かを選ぶこと」
ひろしは言葉を失った。
りなは笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「私、強くないんだよ」
「りな……」
「だから、お願い」
りなの手が、ひろしの手を探す。
指が重なる。
「私を選んで」
その一言が、夜の海に消えていった。
ひろしは、握られた手を見つめた。
ずっと迷っていた。
なおみの優しさ。
しょうこのまっすぐさ。
そして、りなへの想い。
でも――
自分が本当に会いたいと思ったのは誰だったのか。
離れている時間に、何度も思い出したのは誰だったのか。
声を聞くだけで胸が苦しくなるのは誰だったのか。
答えは、もう決まっていた。
「りな」
「……うん」
「俺も、りなが好き」
りなの目から涙がこぼれた。
「本当に?」
「うん」
「大阪に帰っても?」
「うん」
「沖縄にいなくても?」
「……それでも好きだと思う」
りなは泣きながら笑った。
「ずるいよ……」
「え?」
「そんなこと言われたら……嬉しくなるじゃん」
りなはひろしの胸に飛び込んだ。
ひろしは、その身体を受け止めた。
二人はしばらく何も言わなかった。
ただ、互いの体温を確かめるように抱きしめ合っていた。
やがて、りなが顔を上げる。
距離が近い。
ひろしは、りなの目を見る。
りなも目を逸らさない。
「……ひろしさん」
「うん」
「今度こそ……いいよ」
ひろしの胸が大きく鳴った。
ゆっくりと顔を近づける。
唇が触れる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、二人には長い時間のように感じられた。
離れたあと、りなが照れたように笑った。
「……やっとだね」
「うん」
「もっと早くしてくれればよかったのに」
「ごめん」
「もういい」
りなは再び、ひろしの手を握った。
「だって、これからだから」
その言葉に、ひろしは笑った。
しかし――
大阪へ戻る日は、もう目の前だった。
そしてひろしには、まだ二人に伝えなければならないことが残っていた。
夏の終わりまで、あと三日。
ひろしは、なおみとしょうこに向き合うことを決めた。
逃げずに。
曖昧にせずに。
そして――
最後の夏を、終わらせるために。




