第4話 海風に揺れる気持ち
海へ向かう車の中で、ひろしは何度もスマートフォンを見ていた。
莉奈から届いたメッセージ。
『昨日の海』
それだけだった。
どんな顔をして会えばいいのか分からない。
昨日、あと少しで唇が触れそうになった。
あれは偶然だったのか。
それとも――莉奈も同じ気持ちだったのか。
「……考えすぎだろ」
ひろしは小さく呟いた。
沖縄では6月下旬になると梅雨が明け、夏らしい晴天が増えていく。今夜も昼間の雨が嘘のように、空には星が広がっていた。
海岸に着く。
莉奈は、昨日と同じ場所にいた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「来てくれたね」
「莉奈さんが呼んだから」
「そうだね」
莉奈は笑った。
薄い羽織を肩にかけ、夜風に髪を揺らしている。
「今日は仕事、大変だった?」
「はい。でも、昨日よりは楽でした」
「それならよかった」
二人は並んで歩き始めた。
昨日よりも、ほんの少しだけ近い距離。
肩が触れそうで触れない。
それだけなのに、ひろしは落ち着かなかった。
「ひろしさん」
「はい?」
「昨日のこと、覚えてる?」
「……何をですか?」
莉奈が足を止める。
「とぼけるんだ」
「いや……」
莉奈がひろしを見る。
「私たち、昨日……」
そこで言葉を止めた。
ひろしも何も言えない。
波の音だけが二人の間を流れていく。
「……近かったよね」
莉奈が小さく笑う。
「はい」
「嫌だった?」
「そんなことないです」
「じゃあ、よかった」
莉奈が一歩近づく。
ひろしの胸が大きく鳴った。
昨日と同じ距離。
いや、昨日より近い。
莉奈の香りが、潮風に混じって伝わってくる。
「ひろしさんって……」
「はい」
「本当に不器用だね」
「よく言われます」
「私、嫌いじゃないよ」
その言葉に、ひろしは莉奈を見た。
目が合う。
莉奈は逃げない。
ひろしも逃げなかった。
「……莉奈さん」
「なに?」
「俺……」
言葉が出てこない。
好き。
そう言えばいいだけなのに。
まだ知り合って数日。
そんな言葉を口にするのは早すぎる。
「……何でもないです」
莉奈は少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
二人は再び歩き始めた。
しばらくして、莉奈が海を指差す。
「ねえ、あそこ行かない?」
砂浜だった。
二人で靴を脱ぎ、波打ち際まで歩く。
冷たい海水が足元を濡らす。
「気持ちいい」
莉奈が笑う。
ひろしも笑った。
仕事中には見せない表情だった。
そのとき、莉奈が足を滑らせた。
「きゃっ」
「危ない!」
ひろしが咄嗟に腕を掴む。
莉奈の身体が、ひろしの胸にぶつかった。
「……」
「……」
近い。
今度こそ、本当に近かった。
ひろしの腕の中に莉奈がいる。
莉奈も離れようとしない。
「ひろしさん」
「はい……」
「離さないの?」
「……すみません」
慌てて手を離そうとする。
しかし莉奈が、ひろしの腕を軽く掴んだ。
「……もう少しだけ」
その声は、いつもの明るい莉奈とは違っていた。
ひろしの心臓が激しくなる。
莉奈が顔を上げる。
目が合う。
少しずつ距離が縮まっていく。
あと数センチ。
あと少し。
――その瞬間。
ひろしのスマートフォンが鳴った。
二人とも固まった。
「……また?」
莉奈が吹き出す。
「すみません……」
画面を見る。
なおみだった。
『明日の朝、少し早く来られる? 相談したいことがあるの』
ひろしは返信しようとする。
すると莉奈が画面を見て、
「なおみさん?」
「……はい」
「仲いいんだね」
「仕事の人です」
「ふーん」
莉奈は少しだけ目を細めた。
「女の人?」
「……はい」
「そっか」
それだけ言うと、莉奈は海の方を向いた。
さっきまでの空気が、少しだけ変わった。
「莉奈さん?」
「ねえ、ひろしさん」
「はい」
「沖縄にいる間に、ちゃんと好きな人を見つけた方がいいよ」
「……え?」
莉奈は笑った。
「夏は短いから」
そう言って、ひろしから離れる。
ひろしは何も言えなかった。
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翌朝。
現場に着くと、なおみが待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日、遅かった?」
「……少し」
なおみはひろしの顔を見る。
「寝不足?」
「はい」
「誰かと会ってた?」
「……」
「やっぱり」
なおみが笑う。
「莉奈さん?」
ひろしは驚いた。
「なんで知ってるんですか?」
「昨日、しょうこが言ってた」
「しょうこまで……」
「沖縄って狭いからね」
なおみは笑った。
そして、少しだけ真剣な顔になる。
「ひろし君」
「はい」
「私、ひろし君に相談したいことがあるって言ったよね」
「はい」
なおみは周囲を確認した。
そして、小さな声で言った。
「仕事の話じゃないの」
「……え?」
「今日、仕事が終わったら二人で話せる?」
ひろしは返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……分かりました」
なおみは微笑んだ。
「ありがとう」
その笑顔を見ながら、ひろしは思った。
沖縄に来る前まで、自分の周りにこんなにも女性の気配があることなんて、一度もなかった。
そして今。
自分でも気づかないうちに――
三人の女性との距離が、少しずつ変わり始めていた。
夏は、まだ始まったばかりだった。




