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めぐる季節は麦の道 三 秋灯り  作者: まーサンタ


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第三章 夢の中の神楽



 その夜。


 麦人は、なかなか眠れなかった。


 布団に入って目を閉じても、昨日から頭の中に残っているものが消えてくれない。


 山の中に浮かんだ灯り。


 遠くから聞こえた、たった一度の太鼓の音。


 そして――。


「大きな蛇が、神楽を舞ってた……。」


 麦人は小さく呟いた。


 父親の将が見たという夢。


 どうしてそんな夢を見たのか。


 どうして今、その話を聞くことになったのか。


 考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。


 麦人は布団を抜け出した。


 そっと襖を開ける。


「まーさん。」


 居間では、将が湯飲みを手にしていた。


「まだ起きてたの?」


「ああ。どうした?」


「聞きたいことがある。」


「何だ?」


「昨日の夢。」


 将は麦人の顔を見る。


「蛇の神楽の話か。」


「うん。」


「眠れないのか?」


「ちょっと。」


「怖い?」


 麦人は少し考えた。


「怖いっていうより、気になる。」


「そうか。」


 将は隣をぽんと叩いた。


「座るか?」


「うん。」


 麦人が隣に座る。


 将は湯飲みを置いた。


「じゃあ、話そうか。」


     ◇


「俺があの夢を見たのは、二十代の頃だ。」


「何歳?」


「二十四か、二十五くらいだったと思う。」


「覚えてないの?」


「細かい年齢まではな。」


「どうして?」


「もうずいぶん昔だから。」


「じゃあ、夢の方は覚えてるのに?」


「そうなんだ。」


 将は苦笑した。


「普通は逆だろ。」


「うん。」


「でも、あの夢だけは忘れられなかった。」


 麦人はじっと父親を見る。


「どんな夢だったの?」


「山にいた。」


「どこの山?」


「分からない。」


「また分からない。」


「仕方ないだろ。」


 将が笑う。


「夢の中では、そこがどこなのか分かっていた。でも、目が覚めると説明できなかった。」


「変なの。」


「夢っていうのは、そういうものなのかもしれない。」


 将は少し遠くを見るような目をした。


「でもな。妙に現実感があった。」


「現実みたいだった?」


「ああ。」


「匂いとか?」


「土の匂い。」


「音は?」


「風の音。」


「他には?」


「笛。」


「笛?」


 麦人が顔を上げる。


「それから太鼓。」


「神楽?」


「そう。」


 将は頷いた。


「神楽の音が聞こえていた。」


     ◇


「それで?」


「俺は音のする方へ歩いていった。」


「一人で?」


「ああ。」


「怖くなかった?」


「その時は、なぜか怖くなかった。」


「どうして?」


「分からない。」


「まただ。」


「ははは。」


 将は笑った。


「でも、今思えば、夢だから怖さを感じなかったのかもしれない。」


「夢なら何でもできるから?」


「それもあるな。」


 将は少し考えて続けた。


「山の中を抜けると、広い場所に出た。」


「何があった?」


「大きな木。」


「どんな木?」


「ものすごく太かった。」


「何人くらいで囲める?」


「五、六人じゃ足りないくらい。」


「そんなに?」


「ああ。」


 麦人は目を丸くした。


「その木の前に、何かいた。」


「人?」


「違う。」


「動物?」


「そう。」


「何?」


 将は少し間を置いた。


「蛇だ。」


     ◇


 麦人は息を呑んだ。


「大きかった?」


「大きかった。」


「どれくらい?」


「長さは……。」


 将は少し考えた。


「車よりずっと長かったと思う。」


「そんな蛇、いるの?」


「現実には、そんな大きな蛇はまずいないだろうな。」


「じゃあ、夢だから?」


「そう考えるのが普通だ。」


「普通……。」


 麦人は考えた。


「でも、まーさんは普通じゃないと思ってる?」


 将はすぐには答えなかった。


「分からない。」


「また?」


「ああ。」


 将は笑わずに言った。


「俺は、あの夢を現実だとは思っていない。でも、ただの夢だったと決めつける気にもなれない。」


「どうして?」


「理由がある。」


「何?」


「その蛇が舞っていたんだ。」


「蛇が?」


「ああ。」


 将は目を閉じた。


「身体をゆっくり左右に揺らしていた。」


「踊ってた?」


「そう。」


「神楽みたいに?」


「そうだ。」


「誰かが操ってたの?」


「誰もいなかった。」


「じゃあ、蛇が自分で?」


「ああ。」


 麦人は黙った。


 将の話す声は静かだった。


 だからこそ、目の前にその光景が浮かぶようだった。


 大きな蛇。


 古い木。


 山の夜。


 そして、どこからともなく聞こえる笛と太鼓。


     ◇


「その蛇、何してたの?」


「舞っていた。」


「何のために?」


「分からない。」


「神様だった?」


「分からない。」


「じゃあ、悪いもの?」


「それも分からない。」


「まーさん。」


「ん?」


「分からないばっかり。」


 将が笑った。


「そうだな。」


「でも、まーさんは怖くなかったんでしょ?」


「ああ。」


「じゃあ、悪いものじゃなかったんじゃない?」


 将は少し驚いたように麦人を見る。


「そう思うか?」


「うん。」


「どうして?」


 今度は将が尋ねた。


 麦人は少し考えて答える。


「だって、悪いものなら、まーさんを怖がらせるんじゃない?」


「そうとも限らない。」


「どうして?」


「人間が怖いと思うものが、必ず悪いものとは限らないからだ。」


 麦人は黙った。


「例えば、高いところ。」


「怖い。」


「でも、高い場所そのものが悪いわけじゃない。」


「うん。」


「逆に、見た目がきれいだから安全とも限らない。」


「なるほど。」


「だから、見たものだけで判断しない方がいい。」


 麦人は頷いた。


「じゃあ、その蛇も?」


「ああ。」


「怖くなかったからって、良いものとも限らない。」


「そういうこと。」


 麦人はしばらく考えた。


「でも、まーさんは逃げなかった。」


「うん。」


「どうして?」


 将は少し笑った。


「夢の中では、逃げる必要を感じなかったんだ。」


     ◇


 その時、襖が開いた。


「二人とも、まだ起きてるの?」


 恵子だった。


「恵子さん。」


「むーさん、もう寝る時間だよ。」


「あと少し。」


「あと少しって言う子は、だいたいあと少しじゃ終わらないんだよね。」


「……。」


 麦人が将を見る。


「まーさん。」


「何だ?」


「恵子さんって、いつもこう?」


「いつもこう。」


「聞こえてるよ、まーさん。」


 恵子が笑う。


 将も笑った。


「それで?」


 恵子が二人の前に座る。


「蛇の夢の話?」


「うん。」


「そう。」


 恵子は静かに頷いた。


「まーさんがその夢を見た時、私にも話してくれたんだよ。」


「そうなの?」


「うん。」


「その時、恵子さんは何て言ったの?」


 恵子は少し考えた。


「覚えてない。」


「え?」


「でも、夢を笑わなかったことは覚えてる。」


 麦人は将を見る。


「まーさん、恵子さんに話したんだ。」


「まあな。」


「どうして?」


「母親だから。」


「それだけ?」


「それだけじゃない。」


 将は恵子を見る。


「恵子さんなら、笑わないと思ったから。」


 恵子が少しだけ笑った。


「よく分かってるね、まーさん。」


「何十年一緒にいると思ってるんだ。」


「そうだね。」


 麦人は二人を見た。


 なんだか少し不思議な気持ちになった。


 自分が知らない頃から、二人にはこういう話があったのだ。


     ◇


「まーさん。」


「ん?」


「じゃあ、あの夢を見てから、何か変なことあった?」


 将の表情が少し変わった。


「……ある。」


「何?」


「夢を見た次の日だ。」


 将は窓の外を見た。


「仕事へ行く途中、山道を通った。」


「どこの?」


「昨日話した場所とは違う。」


「うん。」


「そこで、石を見つけた。」


「石?」


「大きな石だった。」


「夢に出てきた?」


「ああ。」


 麦人の目が大きくなる。


「同じ?」


「形までそっくりだった。」


「本当に?」


「本当に。」


「じゃあ、夢じゃなくて、まーさんが前に見たことを思い出したんじゃない?」


 将は頷いた。


「それも考えた。」


「でも?」


「その石を見たことがなかったんだ。」


「じゃあ……。」


「だから、分からない。」


 麦人は黙った。


 恵子も黙っていた。


     ◇


 しばらくして、麦人は立ち上がった。


「寝る。」


「そうしろ。」


「まーさん。」


「ん?」


「明日も話してくれる?」


「何を?」


「その続き。」


 将は少し笑った。


「いいぞ。」


「約束?」


「ああ。」


「じゃあ、おやすみ。」


「おやすみ、麦人。」


「おやすみ、恵子さん。」


「おやすみ、むーさん。」


 麦人が部屋へ戻っていく。


 襖が閉まる。


 恵子が小さく息を吐いた。


「話したね。」


「ああ。」


「大丈夫?」


「何が?」


「昔のこと。」


 将はしばらく黙っていた。


「大丈夫だよ。」


 そう言ったものの、将は窓の外を見た。


 山は暗い。


 灯りは見えない。


「……ただ。」


「うん。」


「昨日の灯りを見た時、夢のことを思い出した。」


「私も。」


「やっぱり、何かあるのかな。」


 恵子は答えなかった。


 ただ、静かに山を見つめる。


「まーさん。」


「ん?」


「今度は、夢じゃないかもしれないね。」


 将は恵子を見る。


 その言葉に、返事はしなかった。


 遠くで、秋の虫が鳴いている。


 そして――。


 山の奥から、ほんの一瞬だけ。


 黄色い光が浮かんだ。


 二人は同時にそれを見た。


 灯りは、すぐに消えた。


 けれど将には分かった。


 あの夢に出てきた山の空気と、今夜の空気が――。


 どこかでつながっている。


 そんな気がしていた。


            ――第三章 夢の中の神楽・終――

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