第四章 蛇の道
翌朝。
麦人は目を覚ますと、昨日の夜に聞いた将の話を思い出した。
大きな蛇。
神楽。
そして、夢の中にあったという大きな石。
「石……。」
麦人は布団の中で呟いた。
夢に出てきたものと同じ石が、現実にもあった。
それが偶然なのか。
それとも、何か意味があるのか。
麦人には分からない。
けれど、分からないからこそ気になる。
麦人は布団から出ると、居間へ向かった。
「まーさん。」
将は朝食の支度をしていた。
「おはよう。」
「おはよう、まーさん。」
「どうした?」
「昨日の話。」
「蛇の夢?」
「うん。」
「気になるか?」
「気になる。」
「だと思った。」
将が笑う。
「何が知りたい?」
「夢の中の石。」
「うん。」
「本当に同じだったの?」
「少なくとも、俺には同じに見えた。」
「形とか?」
「ああ。」
「色も?」
「それも似ていた。」
「じゃあ、どうして夢に出てきたの?」
将は少し考えた。
「それが分からない。」
「まーさんでも?」
「俺でも。」
麦人は少し考えた。
「じゃあ、調べたら?」
「何を?」
「その石。」
「どこにあるか?」
「うん。」
「それはできるかもしれないな。」
「じゃあ、探しに行こう。」
将は麦人を見る。
「今から?」
「うん。」
「学校は?」
「今日は土曜日。」
「ああ。」
将は笑った。
「そこまで考えてたのか。」
「もちろん。」
◇
「探しに行くの?」
恵子が台所から顔を出した。
「うん。」
麦人が答える。
「まーさんの夢に出てきた石。」
「そう。」
恵子は将を見る。
「行くの?」
「どうしようかと思ってたところ。」
恵子は少し黙った。
「山の奥までは行かないでね。」
「分かってる。」
「むーさんも。」
「うん。」
「道から外れないこと。」
「うん。」
「勝手に何か触らないこと。」
「うん。」
「それから――。」
「まだある?」
麦人が聞く。
恵子が笑う。
「あるよ。」
「何?」
「変だと思ったら、戻ってくる。」
麦人は頷いた。
「分かった。」
将も頷く。
「そのくらいなら守れる。」
「まーさん。」
「ん?」
「『そのくらい』じゃなくて、ちゃんと守ってね。」
「はいはい。」
「まーさんまで。」
恵子が笑う。
「むーさんは、まーさんに似てきたね。」
「どこが?」
「細かいところ。」
「それは、まーさんがそうしたんでしょ?」
将が苦笑する。
「そうだった。」
◇
午前十時。
三人は山の麓へ向かった。
空は高く、秋らしい青色をしていた。
木々の葉はまだ緑が多い。
けれど、ところどころ黄色や赤に変わっている。
「ここから先?」
麦人が聞く。
「ああ。」
将が答える。
「夢の中で見た場所に似ている。」
「夢なのに、場所が分かるの?」
「分かるというより、感じるんだ。」
「どういうこと?」
将は少し考えた。
「例えば、自分の家って、住所を言わなくても分かるだろ?」
「うん。」
「夢の中でも同じなんだ。」
「なるほど。」
麦人は頷いた。
「夢の中では、『ここだ』って分かるんだね。」
「そう。」
「起きると分からなくなる。」
「そういうこと。」
「じゃあ、今も同じ感じ?」
将は周囲を見回した。
「……少し違う。」
「何が?」
「夢の中では、もっと静かだった。」
「今は?」
「虫の音がする。」
麦人が耳を澄ます。
チチチ……。
草むらから小さな虫の声が聞こえる。
「本当だ。」
恵子が先を歩きながら言った。
「秋だね。」
「昨日もそれ言ってた。」
「だって秋だもの。」
麦人が笑った。
◇
山道をしばらく歩いた。
道の脇には、古い石がいくつか転がっている。
苔に覆われているものもある。
麦人は一つ一つ見ながら歩いた。
「これ?」
「違う。」
「これは?」
「違う。」
「じゃあ、あれ?」
少し先に、大きな石があった。
将が立ち止まった。
「……。」
「まーさん?」
将は答えない。
ゆっくりと石へ近づいていく。
そして、しゃがみ込んだ。
「これだ。」
麦人が走り寄る。
「夢の石?」
「ああ。」
「本当に?」
「たぶん。」
「また『たぶん』。」
将は石をじっと見つめる。
「でも、かなり似ている。」
恵子も近づいてきた。
石には、細い筋が何本も入っていた。
まるで何かが這ったような跡。
麦人が触ろうとする。
「むーさん。」
恵子の声が飛んだ。
「触らないで。」
麦人の手が止まる。
「どうして?」
「……なんとなく。」
「第六感?」
恵子は頷いた。
「そう。」
将も石を見る。
「俺も、触らない方がいいと思う。」
麦人は手を引っ込めた。
「分かった。」
少し残念そうだった。
「触ったら何か起きる?」
「分からない。」
「まーさんも?」
「うん。」
「じゃあ、分からないけど触らない方がいい。」
「そういうこと。」
麦人は頷いた。
「理由は分からなくても、危険かもしれないなら避ける。」
「その通り。」
将が笑う。
「それが判断ってことだ。」
◇
その時。
山の奥から、かすかな音がした。
笛。
細く、長い音。
麦人が顔を上げる。
「今の何?」
将の顔から笑みが消えた。
恵子も立ち止まった。
もう一度。
ヒュウ――。
山の奥から笛の音がする。
「神楽?」
麦人が聞く。
「……たぶんな。」
将が答える。
「でも、こんなところで?」
「分からない。」
麦人が父親を見る。
「夢と同じ?」
将は頷いた。
「ああ。」
さらに太鼓の音。
ドン。
麦人の背筋が伸びる。
ドン。
今度は少し近い。
「まーさん。」
「動くな。」
将が静かに言う。
「どうして?」
「音の方へ行かない。」
「でも――。」
「麦人。」
将の声が少し強くなる。
「理由を説明する。」
麦人は黙って父親を見る。
「山の中で、正体が分からない音を聞いた時、一番危ないのは『見に行きたい』という気持ちだけで動くことだ。」
「うん。」
「音の正体が人なのか、動物なのか、それ以外なのか分からない。」
「だから?」
「分からない状態で近づけば、自分で危険を選ぶことになる。」
麦人はじっと聞いている。
「でも、ここなら逃げ道がある。」
将が来た道を指す。
「だから、まずそこを確保しておく。」
「なるほど。」
「それから判断する。」
麦人は頷いた。
「分かった。」
恵子が将を見る。
少しだけ嬉しそうに笑っていた。
「まーさんらしいね。」
「何が?」
「ちゃんと説明するところ。」
「麦人には必要だから。」
「うん。」
◇
音はしばらく続いた。
笛。
太鼓。
そして――。
低い音。
地面の奥から響いてくるような音だった。
「今の……。」
麦人が呟く。
「蛇?」
将は答えない。
石の表面に、突然、小さな影が動いた。
細長い。
そして、すぐに草むらへ消えた。
「まーさん。」
「ああ。」
「今、蛇いたよね?」
「いた。」
「普通の蛇?」
「たぶん。」
「また?」
「蛇の種類までは分からない。」
麦人は苦笑した。
「まーさん、今日は『分からない』が多いね。」
「仕方ない。」
「でも、ちょっと面白い。」
「何が?」
「いつも何でも教えてくれるまーさんにも、分からないことがあるんだなって。」
将は笑った。
「当たり前だ。」
「じゃあ、分からない時はどうするの?」
将は麦人を見る。
「調べる。」
「それでも分からなかったら?」
「考える。」
「それでも?」
「人に聞く。」
「それでも?」
「それでも分からなかったら――。」
将は少し笑った。
「分からないままにしておく。」
麦人も笑った。
「それも大事?」
「ああ。」
「どうして?」
「分からないことを分からないまま受け入れるのも、ちゃんとした答えだからだ。」
麦人はその言葉を心の中で繰り返した。
◇
帰り道。
山を下りる途中、麦人が振り返った。
さっきの石は、もう見えない。
笛の音も聞こえない。
ただ、秋の風が木々を揺らしている。
「恵子さん。」
「ん?」
「あの石、何だったのかな。」
「さあ。」
「恵子さんも分からない?」
「分からないよ。」
「じゃあ、まーさんと同じだ。」
「そうだね。」
恵子は笑った。
けれど、その目は山の奥を見ていた。
「でもね、むーさん。」
「うん。」
「分からないことにも、分からないなりの意味があるのかもしれないよ。」
「どういう意味?」
恵子は少し考える。
「今はまだ、分からない。」
「恵子さんまで。」
三人の笑い声が、秋の山道に響いた。
その時だった。
山の奥。
三人からは見えない場所で――。
一つの灯りが、静かに灯った。
その光は、昼間の太陽とは違う。
夕暮れの灯りとも違う。
まるで誰かが、
「ここにいるよ」
と知らせるような、小さな光だった。
――第四章 蛇の道・終――




