第二章 夕暮れの灯り
翌朝。
麦人は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
しばらく天井を見つめていた麦人は、昨日の夜のことを思い出した。
山の灯り。
そして――。
まーさんが話してくれた、大きな蛇の夢。
「神楽を舞ってた……。」
麦人は布団の中で呟いた。
夢の中で蛇が踊る。
普通なら、それだけで十分に不思議だ。
けれど、まーさんはあの時、冗談を言っている顔ではなかった。
麦人は起き上がった。
「聞いてみよう。」
◇
台所へ行くと、将がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、まーさん。」
「おはよう。」
「昨日の夢のこと、聞いていい?」
「いいぞ。」
将は新聞を畳んだ。
「何が知りたい?」
「どうして蛇が神楽を舞ってたの?」
「それが分からないんだよ。」
「夢なのに?」
「夢だからこそ、分からない。」
麦人は椅子に座った。
「でも、夢って寝てる時に頭の中で作ってるんでしょ?」
「基本的にはそう考えられてる。」
「じゃあ、まーさんが蛇の神楽を知ってたってこと?」
「いや。そんな神楽、見たこともない。」
「じゃあ、どうして?」
将は少し考えた。
「人間の頭ってな、寝ている間に、今まで見たものや聞いたものを組み合わせて、現実にはないものを作ることがある。」
「じゃあ、全部そういうこと?」
「全部とは言えない。」
「どうして?」
「俺にも分からないことがあるから。」
麦人は少し考えた。
「まーさんって、分からないって言うこと多いね。」
「そうだな。」
「嫌じゃないの?」
「何が?」
「分からないこと。」
将は笑った。
「昔は嫌だった。」
「今は?」
「分からないものを無理に分かったことにする方が、嫌になった。」
麦人は黙った。
それは、少し意外な答えだった。
◇
そこへ恵子が入ってきた。
「二人とも、朝から難しい話してるね。」
「恵子さん。」
「ん?」
「まーさんが昨日見た夢って、何だったの?」
「蛇の神楽。」
「あら。」
恵子は驚く様子もなく、食卓に湯飲みを置いた。
「やっぱり話したんだ。」
「やっぱりって?」
麦人が聞く。
「まーさん、昔から時々そういう夢を見るから。」
「え?」
麦人は将を見る。
「そうなの?」
「時々な。」
「他にも?」
「ある。」
「何?」
「それは……。」
将が言葉を濁す。
恵子が横から言った。
「お墓の前に女の人が立ってたこともあったね。」
麦人は目を丸くした。
「何それ?」
「昔の話。」
将は少し苦笑した。
「恵子さん、それはまだ話さなくていいだろ。」
「どうして?」
「麦人が怖がるかもしれない。」
「怖くない。」
麦人は即答した。
「本当?」
「うん。」
少し間を置いてから、
「……たぶん。」
恵子が笑った。
「ほら。」
「何?」
「ちゃんと怖がってる。」
「怖がってないよ。」
「じゃあ、聞く?」
「聞く。」
将は麦人を見た。
「本当に?」
「うん。」
「じゃあ、順番に話す。」
「順番?」
「お前がいつも質問するからだ。」
「だって、理由が知りたい。」
「それもそうだな。」
将は笑った。
◇
朝食を終えた後。
三人は居間に集まった。
窓の外は秋晴れだった。
恵子が麦人の前にお茶を置く。
「熱いから気をつけて。」
「うん。」
将は少し黙ってから話し始めた。
「俺がまだ二十代の頃だった。」
「うん。」
「仕事の帰りに、墓地の近くを通ったことがあった。」
「夜?」
「ああ。」
「怖くなかった?」
「その時は別に。」
「どうして?」
「普通の道だったから。」
「墓があるのに?」
「墓があるからって、必ず怖い場所とは限らないだろ。」
麦人は頷く。
「確かに。」
「それで、その日の夜。」
将の声が少し低くなった。
「夢を見た。」
「また?」
「そう。」
「蛇?」
「違う。」
将は首を横に振った。
「女の人だった。」
麦人が身を乗り出す。
「どんな人?」
「きれいな人だった。」
「どれくらい?」
「……今まで見たことがないくらい。」
恵子が静かに聞いている。
「着物を着てた。」
「どんな着物?」
「それが説明できない。」
「赤?」
「違う。」
「青?」
「それとも違う。」
「じゃあ?」
将は苦笑した。
「お前の言葉では説明できないかもしれない。」
「どうして?」
「今の時代の着物と、何か違ったんだ。」
「昔の着物?」
「たぶん。」
「何年前くらい?」
「分からない。」
麦人は少し困った顔をした。
「また分からない。」
「仕方ないだろ。」
将が笑う。
「それで、その女性は何をしてたの?」
「墓の前に立っていた。」
「誰のお墓?」
「分からない。」
「何してたの?」
「ただ、立っていた。」
「それだけ?」
「ああ。」
麦人は黙った。
怖い話のはずなのに、不思議と怖くなかった。
むしろ――。
寂しそうな感じがした。
「その人、悲しそうだった?」
麦人が尋ねる。
将は少し考えた。
「……そうだったのかもしれない。」
「まーさんにも分からない?」
「顔は見えなかったんだ。」
「じゃあ、どうして悲しそうって分かったの?」
将は答えなかった。
恵子が静かに口を開く。
「人ってね。」
「うん。」
「顔を見なくても、なんとなく分かることがあるんだよ。」
「第六感?」
「そう。」
麦人は恵子を見る。
「恵子さんも?」
「時々ね。」
◇
昼過ぎ。
麦人は一人で団地の外へ出た。
昨日見た山の灯りが気になっていた。
もちろん、山の中へ入るつもりはない。
ただ、団地から見える場所を探したかった。
「ここかな。」
小さな公園の端に立つ。
山がよく見える。
昼間の山は、何の変哲もない。
緑の木々。
青い空。
鳥の声。
「普通だな。」
麦人は呟いた。
でも――。
昨日の夜、あそこに灯りがあった。
麦人は山を指差した。
「どうして灯るんだろう。」
その時。
「むーさん。」
後ろから恵子の声がした。
「恵子さん。」
「ここにいたの?」
「うん。」
「山を見てた?」
「うん。」
恵子は麦人の隣に立った。
「昼間は何もないね。」
「昨日はあった。」
「そうだね。」
「恵子さん。」
「なに?」
「怖い?」
恵子は少し考えた。
「ううん。」
「どうして?」
「怖いっていうより……。」
「うん。」
「懐かしい感じがする。」
「懐かしい?」
「そう。」
麦人は山を見た。
「恵子さん、昔ここで何かあった?」
「私じゃない。」
「じゃあ誰?」
恵子は答えなかった。
代わりに、山の方へ目を向ける。
「むーさん。」
「うん。」
「昨日の灯り、もう一度見たい?」
「見たい。」
「じゃあ、今夜一緒に見ようか。」
「いいの?」
「ただし。」
「何?」
「山には入らない。」
「どうして?」
「暗いから。」
「それだけ?」
恵子が笑った。
「それもある。」
「他にもあるんだ。」
「あるよ。」
「何?」
「それは、まーさんにも聞いてみな。」
麦人は笑った。
「また質問する。」
「そうしな。」
◇
夕方。
空が少しずつ赤くなっていく。
麦人はベランダに立っていた。
将も隣にいる。
「まーさん。」
「ん?」
「恵子さんが、山には入るなって。」
「そうだな。」
「どうして?」
将はすぐに答えた。
「暗い山は危ないから。」
「それだけ?」
「それだけでも十分な理由だ。」
「でも、他にもあるんでしょ?」
将は山を見る。
「……ある。」
「何?」
「昔から、山には人間が勝手に入らない方がいい場所がある。」
「どうして?」
「そこには、昔からそこにいるものがいるかもしれないから。」
麦人は黙った。
「それって、狐?」
「かもしれない。」
「狸?」
「かもしれない。」
「蛇?」
将は少しだけ目を細めた。
「……蛇かもしれない。」
その瞬間。
山の奥に、また一つ灯りが浮かんだ。
黄色い光。
昨日より近い。
麦人が息を呑む。
「まーさん。」
「見えてる。」
恵子もベランダへ出てきた。
三人で山を見る。
灯りは、しばらく動かなかった。
やがて――。
ゆっくりと右へ移動した。
一つ。
また一つ。
まるで誰かが、山の中を歩いているように。
「……人かな?」
麦人が呟く。
将は答えない。
恵子も答えない。
そして突然。
灯りが三人のいる団地の方を向いたように見えた。
麦人の背中に、ぞくりと冷たいものが走る。
「今……。」
「うん。」
恵子が頷く。
「こっちを見たね。」
将が静かに言った。
その声には、ほんの少し緊張が混じっていた。
灯りが一つ、ふっと消える。
続いて、もう一つ。
最後の一つも消えた。
辺りが暗くなる。
麦人は山を見つめたまま動かなかった。
すると――。
遠くから。
ほんの小さく。
太鼓の音が聞こえた。
ドン。
一度だけ。
恵子が将を見る。
将も恵子を見る。
「……まーさん。」
麦人が小さな声で言う。
「ん?」
「昨日の夢と関係ある?」
将はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「まだ、分からない。」
そして山を見つめながら続けた。
「でも――。」
「うん。」
「たぶん、俺の夢は始まりだったんじゃない。」
「じゃあ?」
将は静かに言った。
「何かの続きを見ていたんだと思う。」
秋の夜風が、三人の間を通り抜けた。
風鈴が鳴る。
チリン。
その音に重なるように。
山の奥から、もう一度だけ。
小さな太鼓の音が響いた。
ドン。
――第二章 夕暮れの灯り・終――




