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第5回 / 置き去り、そして自立


「……もう、無理です。一回、外に出させてください。これ以上は、心が、魂が、すり減って消えてなくなります」


 俺は豪華なダブルベッドの端に座り込み、幽霊のような虚脱状態でそう呟いた。

 

 視線の先では、勇者アリスが重力魔法を付加した大剣を、まるで羽根のように軽々と振り回している。その横では魔導師テッサが空中に数百の魔法陣を同時展開し、聖女セシルが三台の机を並べて猛烈な勢いで聖典の写本を続けている。

 

 ここは俺のユニークスキル『愛の密室アモル・クラウスラ』。

 外の世界では一瞬。だが中では無限の時間が流れる、最高に効率的で、最高にブラックな合宿所だ。

 

「カイト、何を言っている。次の『リチャージ』まであと二時間あるぞ。その間に私はあと三千回は剣を振らねばならんのだ」


 アリスが剣風で前髪を揺らしながら、事も無げに言った。

 

「そうですわ、カイト様。わたくしも、あと五百ページは書き写さなければ、浄化魔法の解像度が上がりませんの。あなたが外に出てしまっては、わたくしたちの修行が中断してしまいますわ」


 セシルに至っては、ペンを動かす手すら止めずに微笑みを向けてくる。その瞳には、過労で倒れかけている俺への同情など一ミリも存在しなかった。あるのは「自分たちが強くなるためのリソースを絶やさないでほしい」という、純粋で残酷なまでの向上心だけだ。

 

「いや、中断はしません。……このスキルの説明、まだ全部してませんでしたよね」

 

 俺は、震える手で自身の胸元に浮かぶスキルの紋章を指差した。

 

「この部屋には『置き去り』という機能があるんです。……俺一人が外に出ても、中にいる人はそのまま、この時間停止空間に残ることができる。部屋を出られるのは俺との『儀式』を済ませた人だけですが、中に居続ける分には、俺がいなくても問題ないんです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、三人の動きがピタリと止まった。

 

 テッサが眼鏡をクイと押し上げ、獲物を定めるような目で俺を見る。

 

「……詳しく教えなさい。それはつまり、あなたが外で美味しいものを食べたり寝たりしている間も、私たちはここで何年分でも研究を続けられるということ?」

 

「ええ、まあ……理論上は。俺がまた中に入って、皆さんと『儀式』を行って部屋を開錠するまでは、皆さんはこの止まった時間の中で、心ゆくまで自分を追い込めますよ」

 

 普通なら、そんな孤独な監禁状態は嫌がるはずだ。

 俺は彼女たちが「それは困るわ、カイトがいないと寂しいもの」なんて言ってくれるのを、心のどこかで、ほんの少しだけ期待していた。

 

 だが、返ってきたのは、歓喜の咆哮だった。

 

「素晴らしい! ならばカイト、貴様は今すぐ外へ戻れ!」


 アリスが、弾かれたように叫んだ。

 

「貴様が中にいると、どうしても二時間に一度は『供給』のために手を止めねばならん。だが貴様が外にいれば、私は己の限界が来るまで、文字通り死ぬまで剣を振るい続けられる! そして限界が来たら、貴様を召喚してリセットすればいいわけだ!」

 

「名案ね。私も、計算の途中であなたの相手をするのは、実は少し集中力が削がれていたのよ。カイト、あなたは外でしっかり栄養と睡眠を摂って、私の魔力回路をいつでも満タンにできるよう、『充電』に励んでいなさい」

 

 テッサまでもが、俺を「持ち運び可能なバッテリー」扱いして、外へと追い出そうとする。

 

「カイト様、これは神が与えてくださった新たな試練ですわ。わたくしたちがこの部屋で千年の祈りを捧げている間、あなたは外でわたくしたちを迎え入れる『鍵』として、健やかに過ごしてくださいませ。……あ、戻られた際はすぐ『清算』していただきますので、覚悟しておいてくださいね?」

 

 セシルの慈愛に満ちた(脅迫に近い)笑顔に見送られ、俺は半分追い出されるようにして、スキルの『置き去り』を発動した。

 

「――あ」

 

 視界が明転する。

 

 一瞬前までいた、汗と魔力と、欲望が事務的に処理される熱気に満ちた部屋が消える。

 

 そこは、夕闇に包まれた、いつもの王城の訓練場だった。

 カラスが一声鳴く。俺がアリスたちを部屋に連れ込んでから、やはり一秒も経っていない。

 

 俺は、膝から崩れ落ちた。

 

「……自由だ。……自由だぁ……!」

 

 久々に吸う、外の乾いた空気が美味い。

 あの部屋にいた数週間(主観時間)の、地獄のようなノルマから解放されたのだ。

 

 俺はそのまま地面に大の字になって寝転んだ。

 彼女たちは今、あの密室の中で、俺というブレーキを失って加速し続けている。

 

 勇者は千の剣を振るい、魔導師は万の術式を編み、聖女は億の祈りを捧げているだろう。

 そして俺は、ここではただの、何の変哲もない「後方支援部隊のカイト」だ。

 

 だが、その解放感は、すぐに奇妙な疎外感へと変わっていった。

 

「おい、カイト! 勇者様たちはどうした!? 急に姿が消えたと思ったら、お前だけ戻ってくるとは!」

 

 駆け寄ってきたのは、王宮騎士団の団長や、事態を重く見た国王陛下たちだった。

 

「あ……陛下。アリス様たちは、俺のユニークスキルの中で特訓中です。……おそらく、次に俺が彼女たちを呼び出した時には、魔王を素手で捻り潰せるくらいにはなっているかと」

 

「な、何だと……!? 一瞬でそこまでの成長を!? おお、なんという奇跡だ! カイト、貴様は我が国の至宝だ!」

 

 国王が俺の手を取り、涙ながらに感謝を述べる。

 周囲の兵士たちからも、称賛の嵐が巻き起こる。

 

「一瞬で最強の軍勢を作り出す『聖なる扉』の守護者か! カイト様、素晴らしい!」

 「これで魔王軍も怖くないぞ!」

 

 ……違う。

 

 俺が賞賛されているのは、俺の技術でも、俺の人格でもない。

 ただ、彼女たちが強くなるための「場所」を提供し、出入りを管理しているという「機能」に対してだ。

 

 俺がここに立っていようが、椅子に座っていようが、俺という人間の中身には誰も興味がない。

 

 彼らが求めているのは、俺がいつ『鍵』を開け、中から「完成された兵器」を取り出してくれるか、それだけなのだ。

 

「……陛下。俺、少し休んでもいいですか。……すっごく、疲れちゃって」

 

「ああ、もちろんだ! カイト、貴様は王宮の最高級客室を使え! 食事も酒も、望むものをすべて用意させよう! 貴様の『魔力』が回復しなければ、勇者たちが戻ってこれないのだからな!」

 

 ……結局、それだ。

 

 俺は最高級のベッドに横たわった。

 羽毛の感触は素晴らしいし、部屋は静かだ。

 

 だが、隣に誰もいない。

 あんなに「作業」だと割り切って、早く解放されたいと思っていたはずなのに。

 

 いざ一人になってみると、あの部屋で交わした、あの事務的な、しかし確かに肌の温もりがあった時間が、ひどく懐かしく、そして自分という存在を唯一繋ぎ止めていたもののように思えてくる。

 

 俺の手元には、スキルの発動を司る紋章が刻まれている。

 

 これは俺の意志でいつでも開けるし、いつでも彼女たちを呼べる。

 だが、俺から彼女たちを呼ぶということは、またあの「リチャージ(清算)」の地獄に戻ることを意味する。

 

 そして、彼女たちは今、俺がいなくても幸せそうに……いや、ストイックに修行を楽しんでいるのだろう。

 

「……俺って何なんだろうな」

 

 俺は、自分が持っている『鍵』を見つめた。

 

 持っているのに、自分からは開けたくない。

 開ければまた、自分を人間扱いしない女たちに、部品のように消費されるだけ。

 

 でも、彼女たちがいない世界は、こんなにも静かで、退屈で、俺の居場所がない。

 

 外の世界では「人類の救世主」と崇められながら、中身は空っぽのままの俺。

 

 その時。

 

 スキルの紋章が、ドクン、と脈打った。

 

 内側から叩かれている。

 『置き去り』にされた彼女たちが、主観時間にして何年、あるいは何十年を過ごした末に、ようやく「出口」を求めて、俺を呼んでいる。

 

「……来いってか。……しょうがねえな」

 

 俺は、深い溜息をつきながら、再び部屋の展開を始めた。

 

 扉が開く。

 

 そこに立っていたのは――。

 

 入る前とは明らかに違う、感情のハイライトが完全に消失し、ただ「殺害」と「効率」の概念だけを結晶化させたような、美しくも恐ろしい「最強の怪物」へと成り果てた勇者アリスだった。

 

「……カイトか。遅い。……一秒待ったぞ。……早くしろ。……清算、開始だ」

 

 アリスの声には、もはや人間らしい抑揚すら残っていなかった。

 

 戦場に放たれれば、魔王軍をたった数秒で殲滅するであろう、人類の最終兵器。

 強くなりすぎた彼女たちが、その代償として何を失ったのか。

 

 カイトは、その冷たい瞳に貫かれながら、自分自身のアイデンティティが完全に崩壊していくのを感じた。


 

次回、戦場に現れたのは、もはや「人間」であることを辞めた最強の勇者。

 魔王軍を秒殺するその圧倒的な力と、それ以上に圧倒的な「虚無」が、世界を凍りつかせる――。

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