第4回 / 聖女の祈りと、俺の絶望
「さあ、カイト様。横になってください。これは人類を救うための、最も純潔な『聖務』なのですから」
慈愛に満ちた、透き通るような声。
微笑む彼女の背後には、神々しい後光が差している……ように見えるが、ここは俺のスキル『愛の密室』の中だ。光源は天井のシャンデリアしかない。
目の前に立つのは、王国が誇る「至高の乙女」、聖女セシル。
彼女は祈るように胸の前で手を組み、純白の法衣をゆるりと解き始めた。その所作には一点の曇りもなく、まるで祭壇に供物を捧げる神官のような厳かさがある。
だが、俺の心境は「ご褒美だ!」なんて浮ついたものではなかった。
むしろ、処刑台を前にした罪人に近い。
「あ、あの……セシル様。さっきアリス様との『朝の訓練(一回目)』が終わって、今はテッサさんとの『午後の研究報告(二回目)』のインターバル中なんです。俺の魔力……っていうか、もう色々なものが枯渇しかけてるんですけど」
「あら、ごめんなさい。ですがカイト様、聞いてください。魔王軍の瘴気を浄化するための『大聖域』。この術式を完成させるには、本来なら大聖堂の地下で十年の断食瞑想が必要なのです」
セシルは、困ったように小首をかしげた。
その足元には、彼女が持ち込んだ膨大な量の古文書と、真っ白な写本用の羊皮紙がうずたかく積まれている。
「でも、この素晴らしいお部屋なら、外の時間を一秒も無駄にすることなく、わたくしは心ゆくまで神との対話に没頭できます。……たった一つ、部屋の維持費として、カイト様と『魂の結合』を行うだけで」
「維持費って言わないでください。俺の尊厳がますます目減りしていく……」
「これは『汚れ』ではありません。救世のための『巡礼』なのです。さあ、カイト様。わたくしを受け入れ、世界を光で満たすための礎となってくださいませ」
セシルの白い指先が、俺の服のボタンに手をかける。
彼女の瞳には、一切の情欲がない。
あるのは、道端のゴミを拾うかのように淡々と、あるいは義務教育の算数ドリルをこなすかのように迷いのない「義務感」だけだ。
アリスが「武」、テッサが「智」なら、この聖女は「徳」の怪物だった。
こうして、俺の『愛の密室』は、完全なる「三交代制ブラック合宿所」へと進化した。
スケジュールはこうだ。
第一シフト:勇者アリスの超高強度フィジカルトレーニング。
俺の役割:インターバルごとの肉体疲労リセット(魔力供給)。
第二シフト:魔導師テッサの禁忌魔法演算及び論文執筆。
俺の役割:理論構築に必要な高純度魔力触媒の提供(魔力供給)。
第三シフト:聖女セシルの長期祈祷及び聖典写本。
俺の役割:大魔法発動のための「徳」のチャージ(魔力供給)。
俺の休息時間は、彼女たちが中で作業をしている間の、ごくわずかな仮眠のみ。
それも、次のヒロインが「カイト、時間だ。脱げ」と部屋の扉……いや、ベッドの天蓋を叩くまでの短い猶予だ。
「……セシル様。一つ、告白してもいいですか」
シーツの海に沈みながら、俺はセシルの耳元で力なく呟いた。
彼女は俺の首筋に顔を埋め、熱い吐息を漏らしながらも、その手にはロザリオをしっかりと握りしめている。
「何でしょう、カイト様? わたくし、お聞きしますわ」
「俺、最近、鏡を見るのが怖いんです。なんだか、自分の目がどんどん死んでいっているような気がして。……これが、俺が夢見ていた異世界生活なんですかね?」
「ふふ、それはきっと、カイト様が『無』の境地へと近づいている証拠ですわ。煩悩を削ぎ落とし、ただ純粋な『装置』として機能する……。なんて尊い献身なのでしょう」
「装置……。聖女様に言われると、なんだか自分が神聖な歯車になった気分ですよ」
「ええ、そうです。あなたはわたくしたちを支える、欠かせない部品。……ああ、神よ。この慈愛の行為に祝福を。カイト様の精霊力が、わたくしの祈りをさらに高みへと押し上げてくれます……!」
セシルの祈りが激しくなるにつれ、俺の意識は遠のいていく。
快楽はある。凄まじい美貌の持ち主に、これ以上ないほど情熱的に求められているのだ。
だが、その中身に「俺への好意」が一切存在しないという事実が、俺の精神をガリガリと削り取っていく。
彼女たちは、俺という人間を見ていない。
俺の股間に直結した、「時間」と「魔力」という名の無限のリソースを見ているのだ。
どれだけの時間が経っただろうか。
主観時間にして、おそらく数週間。
俺はついに、究極の境地に達した。
セシルの写本が千ページを超え、アリスの剣技が神域に達し、テッサが魔王の弱点を七百通り見つけ出した頃。
俺は、天井の木目を数えるだけで、脳内で複雑な幾何学模様を生成し、心を完全に「虚無」に飛ばすスキルを習得した。
(あ、今、アリス様が右の大腿四頭筋に力を入れたな……。次はテッサさんの『実験』か。その次はセシル様の『懺悔(という名のノルマ)』だな……)
感情の起伏が消えた。
かつてあった「女の子と仲良くなりたい」という青臭い欲望は、繰り返される過酷な労働によって、白銀の粉末となって消え去った。
「……カイト様? どうされました? 急に反応がなくなって……。もしや、悟りを開かれましたか?」
セシルが不安そうに俺の顔を覗き込む。
俺は、慈愛に満ちた(あるいは死んだ魚のような)眼差しで、彼女の頭を優しく撫でた。
「いえ、大丈夫です、セシル様。続けてください。俺はただ、世界の平和を祈るための『柱』になっているだけですから」
「まあ……! なんて素晴らしい志! では、遠慮なくもう三セット、祈祷を延長しましょう!」
「はい、お好きなだけどうぞ。俺はただの鍵ですから」
その瞬間、俺の中で何かが「パキン」と音を立てて割れた。
もはや、ここには「エロ」も「恋」もない。
あるのは、世界を救うという大義名分のもとに構築された、完璧な搾取システムだけだ。
聖女のロザリオが揺れる。
勇者の剣風が隣の部屋で鳴り響く。
魔導師の呪文が壁を震わせる。
俺の『愛の密室』は、今や人類最強の「工場」となったのだ。
――そして。
俺たちは、一ヶ月(主観時間)ぶりに外の世界へと帰還した。
相変わらず、外の時間は一秒も進んでいない。
夕暮れの訓練場。カラスの鳴き声が、俺たちが部屋に入る前と同じタイミングで聞こえる。
だが、目の前の三人は、もはや「人間」の枠を超えた存在感を放っていた。
アリスの全身からは黄金のオーラが溢れ出し、テッサの瞳には銀河の知識が渦巻き、セシルの背後には実体化した天使の羽がうっすらと見えている。
そして、その中心に立つ俺は――。
「……カイト、大丈夫か? 少し……いや、かなり痩せた気がするが」
アリスが、最強の力を持て余しながら、少しだけ心配そうに俺の肩に手を置いた。
その手の温もりさえ、俺には「次の充電ポイント」を探るセンサーのように感じられた。
「大丈夫です……アリス様。俺は、幸せです……」
俺は、乾いた笑いを漏らした。
このままでは、俺の精神が死ぬ。
あるいは、俺の腰が物理的に再起不能になる。
俺はついに、禁断の機能に手を伸ばす決意を固めた。
このスキルのもう一つの特徴。俺がいなくても、相手だけを閉じ込めておける『置き去り』の機能を。
カイト、ついに限界。
「俺がいなくても、勝手に修行しててくれ!」――その一言が、物語をさらなる混沌へと突き落とす。




